Ⅰサムエル 20章

「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」(3節)

 ダビデはヨナタンに、自分が死と背中合わせであることを告げました。しかし、真実は、すべての人が死との間に、ただ一歩の隔たりしかありません。人は死亡率100%であり、神様の御手が退けられれば、いつでも取り去られてしまいます。神学者のマクグラスは言います。「地上の人生は、新しいエルサレムで生きる希望によって大きく変えられます。・・・毎日の生活の決まったパターンしか見ない者がいる一方で、最後の運命は神にあることを知って、天を見上げる者がいる・・・人生とは墓で終わるものと信じている人々のような失望に捕らわれてはなりません。真実は全く違います」神様は天国の喜びで私たちが地上を生きることを願っておられます。

 「主よ、天国への希望で私たちを満たしてください。」

Ⅰサムエル 19章

「サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝になって彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げて言った。『今夜、あなたのいのちを救わなければ、あすは、あなたは殺されてしまいます。』こうしてミカルはダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて行き、難をのがれた。」(11、12節)

 サウル王がダビデを殺そうとしたこの一連の出来事の中で、ダビデは素晴らしい詩を作りました。ダビデは恐怖と絶望の中で、心からの叫びを詩にしました。この時にできた詩が詩篇59篇です。「わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。」「私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。」(1、17節)パウロとシラスが真夜中に賛美を捧げていた時に奇跡が起きたように、人生の真夜中に神様は素晴らしい賛美の歌を与えてくださいます。そして賛美を捧げる時、奇跡が起こります。

Ⅰサムエル 18章

「それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。」(29節)

  サウル王の治世の初期には、「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(10:26)とあります。神様は彼の周りに素晴らしい人々を備えてくださっていました。そしてダビデが彼の人生に現れました。ダビデは神の心にかなう人でした。しかもダビデは神を愛するだけでなく、サウル王に対しても忠実でした。しかし驚くことに、サウルはそんなダビデの敵となったとあります。サウルは、忠実な部下ダビデを脅威に感じたのです。どんな理由であれ、忠実な友人を脅威に感じ、背を向けてしまうなら、その人生は下り坂にあります。私たちが神様から目を離してしまう時、忠実な友人の存在は、私たちに忠告を与えてくれます。どんな理由であれ、その忠実な友人を敵対視することがありませんように。

Ⅰサムエル 17章

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(47節)

 この章は、有名な少年ダビデとゴリアテの話が記されています。ゴリアテは約三メートルの巨人でした。驚くことは、サウル王をはじめイスラエルの人々が非常に恐れたゴリアテを、少年ダビデは恐れなかったということです。榎本師はこう言っています。「私たちはここで純粋に神を信じる者と、現実に目を奪われて、神を見失っている者とを見ることができる。」サウルもイスラエルの人々も神は万軍の主と信じていたはずです。しかし現実に巨人ゴリアテを見た時、彼らの目は自分対巨人としか見ることができませんでした。ダビデもゴリアテを見ました。しかし彼は全能の神対巨人と見ることができました。その結果、神の力を体験しました。「いつも主を、私の目の前に置くことができますように。」

Ⅰサムエル 16章

「神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。」(23節)

 ダビデは音楽家でした。彼が作った歌は詩篇に残されています。それらは神への賛美の音楽でした。興味深いことは、サウルが悪い霊に悩まされる時、ダビデの賛美の音楽が悪い霊を追い出したということです。賛美には力があります。悪霊は神への賛美が嫌いで、神への賛美に満ちあふれた場所に悪霊はいることができません。なぜなら神様は、「イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(詩篇22:3)さらに、サウルは賛美の中で「元気を回復」したとあります。口語訳では「気が静まり、良くなって」、新共同訳では「心が安まって気分が良くなり」と訳しています。賛美は私たちに力も与えてくれます。今日は主の日です。主の宮である教会を賛美で満たし、悪霊を追い出し、元気を回復しましょう!

Ⅰサムエル 15章

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(22節)

 メッセージという訳ではこの箇所をこう訳しています。「神様が求めているのはただいけにえ・・・ショーのような空しい儀式だと思いますか?神様はあなたに聴いて欲しいのです。豪華な宗教的なプロダクションの上映ではなくて、普通に聴くことが大事なのです。」スポルジョンはこう言っています。「グレゴリア聖歌、祭服、香、旗について語ってはいけない。神がその子たちに第一に求められることは、従順である。たとえあなたが焼かれるために身を渡し、自分のすべての財産を貧しい人のために与えたとしても、もし主の教えに耳を傾けないならば、あなたのすべての形式は、あなたに益を与えない。」

Ⅰサムエル 14章

「ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。『さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。』」(6節)

前の章の22節で、イスラエル全軍の中で剣や槍をもっているのはサウルとヨナタンだけだったとあります。まさに、人数だけでなく、いろいろな意味でイスラエルは劣勢でした。しかし、神様にとってはそんなことは問題ではありませんでした。神様のみこころならば、妨げるものは何もありません。私たちは神様が働くことができるように、ヨナタンのように信仰の冒険をすることも大切なことです。たとえどんなに劣勢に見えても信仰の一歩を踏み出す時、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」ということを知ることができます。

Ⅰサムエル 13章

「サムエルは言った。『あなたは、なんということをしたのか。』サウルは答えた。『民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。』」(11、12節)

サウル王の問題は、自分が召されていないことを、周りからのプレッシャーのゆえにやってしまったということです。サウル王は祭司ではないのに、祭司がすべきことをプレッシャーのゆえにしてしまったのです。私たちは様々なプレッシャーのゆえに愚かな決断をしてしまうことがあります。人を操ろうとする人は、常にプレッシャーを与えて動かそうとします。私たちはどんなにプレッシャーをかけられても、操られないように神のみこころを求める時間を確保する姿勢が必要です。

Ⅰサムエル 12章

「役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。」(21節)

 人は神から離れてしまう時、役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに依存していく傾向があります。聖書は言います。「そのような人たちは、真理を信じることも愛することもせず、まして救われようなどとは考えもしなかったのです。そこで神様は、彼らがうそで丸め込まれるままに放っておかれるのです。」(Ⅱテサロニケ2:10,11LB)いわゆる知識人と呼ばれる人が、創造主なる神を拒絶するがゆえに、愚かで空しいものに丸め込まれていることを見ます。アウグスティヌスは、神が私たちを神ご自身のために造られたから、私たちの心が神のうちに憩うまでは、私たちの心が安らぎを得ることはないと言いました。「主よ、あらゆる惑わしから守ってください。」

Ⅰサムエル 11章

「サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。」
(6節)

 神の霊が人の上に下る時、何かが起こります。サウルは、神の霊が彼の上に激
しく下ったがゆえに力強いリーダーシップを発揮することが出来たことを聖書は
明記しています。旧約聖書ではこのような現象は、特別な時に、特別な人に、特
別な目的のために限られていました。しかし、ペンテコステの日、聖霊が弟子た
ちの上に下った時、すべては変わりました。使徒ペテロは、ヨエル書二章にある
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(28節)という約束
は、イエス・キリストを信じるすべての人に与えられていると言いました。(使
徒2:39参照)
一般的に、これを「油注ぎ」と呼んでいます。私たちは皆、これを必要としてい
ます。そして、キリストを信じるなら、誰にでも与えられます。「主よ、私に油
注ぎを与えてください。」