マルコ 1章

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」」(1:14,15)

神の福音、良き知らせは、

時が満ち、ついに神の御国、神の統治がここに来た。

という知らせです。

この知らせに対する応答は、神に立ち返り、神の統治を受け入れることだということです。

福音を信じるためには悔い改めが必要です。

神の統治を受け入れることは、神を王として認める必要があるからです。

悪いと分かっていることから離れる必要があるからです。

自分中心から、神中心の世界観に考え方を一新する必要があるからです。

この世がすべてという世界観から、永遠の世界があるという世界観に思いを刷新する必要があるからです。

マタイ 28章

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(28:19,20)

イエス・キリストは、私たちのために十字架で死に、葬られ、よみがえられました。

復活されたイエス様は、みこころが天で行われるように、地でも行われるためのすべての権威が与えられていることを告げました。

そして、あらゆる国の人々にこの知らせを伝えるように命じました。

天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられると言う意味は、天においても、地においてもすべての権威をもつ、王座に着かれたということです。

私たちが託されたことはあらゆる国の人々にこの福音を伝え、キリストの弟子とすることです。

マタイ 27章

「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」」(27:54)

イエス様の十字架の足元に立っていた百人隊長は、イエス様の十字架の出来事を見て、

この方は本当に神の子であった。

と信仰告白をしました。

十字架の御業に対する応答は、信仰告白です。

ユダヤ人であれ、異邦人であれ、イエス・キリストの十字架を見上げるならば、同じように信仰告白することができます。

イエス・キリストの十字架の死によって、世界はかわりました。

悪の力は打ち破られ、神の愛は現されました。

イエス様の十字架の御業は、イエス・キリストこそ本当に神の子であったことを指し示しています。

今日は主の日。共に、神の御子、主イエス・キリストに礼拝を捧げましょう。

マタイ 26章

「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」(26:7)

惜しみなく最高のものをイエス様に捧げることは、無駄なことではありません。

最高の礼拝を捧げるため、最高の賛美を捧げるため、教会では資材を投げ打って最高のものを捧げることを心がけてきました。

しかし、いつの時代も、イスカリオテのユダのように、

「何のために、こんな無駄なことをするのか。」(8節)

と言う人たちがいます。

「貧しい人たちに施しができたのに。」(9節)

と批判するだけで、実際は施しもしません。

そんなイスカリオテのユダは銀貨三〇枚という奴隷の代価でイエス様を売りました。

大事なのはどれほどイエス様に価値を見出すかです。

イエス様は最高のものを受けるのにふさわしいお方です。

世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(13節)

マタイ 25章

「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。」(25:1)

このたとえに出てくる十人の娘は、十人の花嫁ではありません。

彼女たちは花嫁の友人で、花婿をエスコートする役目を担っていました。

ところが花婿が来るのが遅くなったので、「娘たちは皆眠くなり寝入ってしまった」(5節)のです。

ここからカルト宗教は「既存の教会は眠っている愚かな娘たちで、自分たちは目を覚ましている賢い娘たちだ」と主張します。

しかし、寝入ったのは賢い娘たちも同じです。

ですからこのような解釈は的外れです。

油を準備するために店に行かなければならないというたとえでもありません。

賢い娘は誰か、愚かな娘は誰かと比較するためでもありません。

イエス様はそのようなエリート意識を批判されています。大事なポイントは

目を覚ましていなさい。」(13節)。

いつその時がきても準備ができている、イエス様に信頼して日々を生きることです。

マタイ 24章

「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。」(24:46)

聖書は明確にイエス・キリストが再臨することを教えています。

この世の終わりに、イエス・キリストは来られます。

「わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)と言われましたから、キリスト教会はいつの時代も、キリストの再臨を意識しています。

まだ当分帰って来ないだろうと高をくくるならば、思いがけない時に帰ってくると言います。

イエス様は、この世の終わりがいつなのかは、だれも知らないとはっきりと言われました。

ですから、「知っている」という人は偽預言者です。

教会はその日がいつなのかは言及してはいけないのです。

その日がいつなのかはだれも分からないので、私たちは日々、良い緊張感の中で生きることができます。

いつ、キリストが再び来られても良いように一日、一日を生活することを聖書は勧めています。

マタイ 23章

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」(23:23)

律法学者もパリサイ人も生真面目な当時の宗教指導者です。

祭司などの特権階級とは違って、何が聖なる民として求められているかを規定した国家刷新運動に従事していた人たちです。

彼らの問題は、イエス様が指摘したように、自分の正義のゆえに「正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」ということでした。

イエス様の言葉は辛辣です。

「改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。」(15節)

自分の正義で人を切り捨てるゲヘナの子、それは神の正義でなく、自己正当化のために地獄をもたらす人の姿です。

重要なのは神の正義、あわれみ、誠実です。

マタイ 22章

「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。」(22:3)

毎週の主日礼拝は、王の王の祝宴と言ってもいいと思います。

ダビデは歌いました。

「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」(詩篇23:5)

主は毎週、私たちが必要としている食卓を整えて、招いてくださっています。

「ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、」(5節)

とありますが、残念ながら、人々は神の招きを無視して、自分の用事を優先させたと言います。

その結果、神の祝宴にあずかれなかっただけでなく、滅んでしまったと言います。

主は

「大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。」(9節)

と言われます。

全ての人が祝宴にあずかることができるように、礼服はカルバリの十字架で準備されています。

主の家がいっぱいになるように招きましょう。

マタイ 21章

「あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」(21:22)

キリスト教の祈りと他の宗教の祈りと決定的に違うところは、誰に祈っているかという点です。

キリスト教は天地万物を造られた創造主なる神に、イエス・キリストの御名によって、聖霊の助けによって祈ります。

ですから、「信じて祈り求めるものは」という意味は、私たちの信仰心があればということとは少し違います。

私たちが三位一体なる神を信頼しているならばということです。

誰を信頼しているかが重要です。

どんなに信仰心があっても、祈りを聞くことができない物に祈っても意味がありません。

たとえば、人間に祈っても、「祈り求めるものは何でも受けることになります」とは言えません。

限界があるからです。

しかし、不可能なことはない力ある神に祈るなら、「祈り求めるものは何でも受けることになります。」と言えます。

マタイ 20章

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(20:28)

初代教会の讃美歌と言われる「キリスト賛歌」は、今日のイエス様の言葉を言い表しています。

「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2:5-9)

キリストに倣って、仕える人生を生きるように聖書は私たちにチャレンジしています。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。