ルカ 15章

「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」(15:10)

ルカの福音書15章には有名な三つの譬え話が登場します。

「失われた羊」、「失われた銀貨」、そして「放蕩息子」の話です。

共通しているのは、失われたものが見つかった喜びです。

それは、神が失われた人(罪人)を見つけ出して救うために、どれほど気にかけておられるか、そして、見つけたら、どれほど喜ばれるかという話です。

失われた人(罪人)とは、放蕩息子のように神に背を向けた人のことです。

すべての人はアダムとエバが神に背を向けて、禁じられた実を食べてから、失われた状態です。

誰もが悔い改めて神に立ち返る必要があります。

そして、一人の人が悔い改め、神に立ち返るたびに天の御国ではパーティーが催されます。

イエス様のポイントは、天で行われているように、この地でも同じように喜び祝うものだということです。

ルカ 14章

「すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。」(14:23)

毎週の主日礼拝は、ある意味キリストの宴会に招かれているようなものです。

私たちは、招待客との交わりも楽しみますが、何よりも招いてくださったキリストの臨在を楽しみます。

しかし、この箇所にもありますように、招待に応じるかどうかは一人一人に委ねられています。

自分の都合を優先すれば、他の人が体験しても、自分はその機会を失ってしまいます。

神は恵みに溢れていますが、神の招きに応じなければ体験することはできません。

神は招きに応じなかった人を無理強いせず、

急いで町の大通りや路地に出て行って、」(21節)

へりくだらされ、必要を感じている人たちを招くように主のしもべに命じています。

私たちは、人々を招き、神の家、教会をいっぱいにする使命があります。

主はすべての人を招待しています。

ルカ 13章

「見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。」(13:32,33)

悪霊を追い出し、病気を癒すイエス様の活動は、エルサレムへの旅路であることが示されます。

エルサレムへの旅路は預言者として死ぬこと、すなわちカルバリの十字架を意味すると言います。

もっとも、

「三日目に働きを完了する」、

「今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない」

ということは、復活、昇天をほのめかしています。

つまり、イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死に、葬られますが、三日目に死の力を打ち破ってよみがえり、天に昇り、栄光の御座に着座されたということです。

救いの御業は成し遂げられました。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。」(ローマ10:13)

ルカ 12章

「多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。」(12:48)

私たちは豊かな賜物がある人、地位や財産がある人をうらやましく思う傾向があると思います。

しかし、私たちが理解する必要があることは、多く任された者は、多くを要求されるということです。

与えられたもの、任されたもので何をしたかが問われる時が来ると聖書は言います。

人よりも多く任されているということは、それだけ責任が問われるということを意味しています。

だから、イエス様は言われました。

どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(12:15)

ルカ 11章

「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」」(11:1)

ユダヤ人の教師は、自分の弟子たちにだけ、特別な祈りを教えていました。

そして、そのように祈ることが、弟子のしるしとなっていました。

イエス様のお弟子さんたちは、イエス様がよく祈られていたのを見ていましたので、自分たちにも、イエス様の弟子のしるしとなるような祈りを授けてくださいとお願いしました。

イエス様がその求めに応じて教えたのが「主の祈り」です。

初代教会では、この祈りを特別真剣に受け止めて、洗礼を受ける人にだけ教えたそうです。

宗教改革の指導者、マルチン・ルターも、こんなことを言っています。

「いかなる場合も、キリスト者が正しく『主の祈り』を祈るなら、その祈りは十分以上であると、私は確信する。」

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

ルカ 10章

「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(10:20)

「権威」が授けられる時、人は自分の能力以上のことを行うことができます。

イエス様は七十二人の弟子たちに権威を授けて、町々に神の国の到来を告げるために遣わされました。

弟子たちは喜んで帰って来て言いました。

「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します」。(17節)

イエス様は、弟子たちが誤解しないように、彼らが自分の成し遂げた功績ではなく、

「あなたがたの名前が天国の市民として記されていることを喜びなさい。」(20節LB)

と釘をさします。

主イエスを信じる者には、主イエスが授けてくださる権威によって、自分の能力以上の働きをすることができます。

病人は癒されます。(9節)

しかしそれはあくまでも、自分が神の国の民という証明です。

誰も誇ることはできません。

栄光は主のものです。

ルカ 9章

「しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」」(9:50)

仲間意識は気をつける必要があります。

残念ながら、キリスト教会にも多くの教団教派と呼ばれるグループが存在します。

仏教とは違い、正統的なキリスト教の経典は共通して聖書のみであり、その教えも根本的には変わりません。

ですから、アルファ(キリスト教基礎講座)は、カトリック、正教会、聖公会を含むプロテスタントの各派で行われています。

私たちは仲間意識で批判し合うのではなく、宣教のために協力する必要があります。

自分たちの仲間ではないからと、福音宣教の働きをしている人たちの働きを妨げてはいけません。

イエス様は言われます。

「そんなことをしてはいけません。あなたがたに敵対しない者は、あなたがたの味方なのです。」(LB)

ルカ 8章

「しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」」(8:46)

この箇所を理解する上で思い出す必要があるのが6:19です。

群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。

イエス様に触れるなら癒されるという信仰を当時の群衆は持っていたのです。

この女性もその一人でした。

彼女は後ろから近づいて、イエス様の衣の房に触れました。

その時彼女は癒されました。

今も同じように、信仰をもってイエス様を求める人たちに、イエス様から力が出て、癒します。

驚くことは、イエス様はこの女性に自己申告をさせて、証をさせているということです。

病気の癒しの証は、自分の心の中に留めるものではなく、広く証するものということです。

なぜなら、癒しの証は癒しの信仰を与え、主の癒しの御業が解き放たれることになるからです。

ルカ 7章

「そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。」(7:48)

あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。」(36節)

イエス様が当時の宗教指導者の家に入って、一緒に食事をしたというだけでも驚きです。

このパリサイ人も、イエス様を招くだけの度量はあったのだと思います。

しかし、この「罪深い女」の登場を通して、彼が本来ゲストにすべき礼儀を何もイエス様に対してしていなかったことが暴露されます。

イエス様は言われます。

この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」(47節)

罪が赦されているかどうかは、その人の行動に現れると言います。

この女性は強制された訳でも、仕方なくでもなく、行動しました。

イエス様に愛され、赦され、受け入れられたことを理解すれば、それに応答せずにはいられないからです。

ルカ 6章

「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。」(6:36,37)

牧師の牧師と呼ばれるヘイフォード師は人生のマスターキーはイエス・キリストであり、その鍵型に私たちは整えられていく必要があると言います。

その鍵型は、第一に裁かない。人の悪口を言わない。

第二に不義に定めない。誰かのせいにしない。

第三に赦す。他者に優しく、広い心で接する。

第四に与える。握りしめずに、自分の思いを神に明け渡す。

「神があなたの人生に対して持っておられる最終目標は、あなたが快適な生活を送ることではなく、あなたが人格的に成長することです。神の願いは、あなたが霊的に成長してキリストに似た者になることです。」(リック・ウォーレン師)