ヨハネ 11章

「彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」」(11:27)

マルタの信仰告白は模範的です。

「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」(LB)

しかし、実際に、ラザロの墓石をとりのけるように言われた時、マルタは常識を働かせて「もう臭くなっています。」と引き止めます。

するとイエス様は言われます。

「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40節)

神は口先だけでなく信仰の行動を求めます。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

私たちは自分の常識の範囲内に神を入れ込もうとするのではなく、信仰によって生きることが求められています。

ヨハネ 10章

「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。」(10:3,4)

羊と羊飼いの関係はとても重要です。

羊は羊飼いがいないと生きられない動物だからです。

羊に求められていることは、羊飼いの声を聞き分け、羊飼いについていくことです。

羊が羊飼いの声を知っているのは、常に羊飼いの声を聞いているからです。

ダビデは歌いました。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩23:1)

主なる神が羊飼いならば、何も心配する必要はありません。

イエス様は

「わたしは良い牧者です。」(14節)

と言われました。

三位一体なる神は共にいて、私たちを導いてくださいます。

その声を聞き分けられるように、日々、聖書の御言葉に耳を傾けることが、私たちが求められていることです。

ヨハネ 9章

「弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(9:2,3)

多くの人は不幸には原因があると考えます。

因果応報を絶対視する傾向は昔も今も変わりません。

このような考えの問題は、不幸の原因を先祖の罪として悪用する新興宗教のような人たちがいることです。

自分が病気なのは、自分が不幸なのは、何か悪いことをしたからとは限りません。

先祖の罪とは限りません。

イエス様は明確に言われました。

「あなたは間違った質問をしています。あなたは誰かのせいにしたがっている。ここにはそのような因果関係はありません。それよりも、神ができることを見なさい。」(3節MSG)

マイナスは必ずプラスになります。

神は全てのことを働かせて益としてくださいます。

ヨハネ 8章

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」」(8:7)

律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女をイエス様のところに連れて来て

「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

と詰め寄りました。

そもそも、「姦淫の場で捕らえられた」という時点できな臭さを感じます。

イエス様の応答は、すべての批判者に向けられています。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

私たちは誰かに石を投げる前に、自分自身を問う必要があります。

「自分は石を投げることのできる者だろうか?」。

この世界で唯一、その権利があるイエス様は言われました。

「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 7章

「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」(7:18)

イエス様の弟たちは、イエス様に言いました。

「こんな所でくすぶっていても有名にはなれないよ。兄さんがそんなに偉い人だったら、世間の人に証明してみせなくては」(4節LB)

弟たちは、もしかしたら、イエス様が有名になってみんなから褒めてもらいたいと思っていたのかもしれません。

しかし、イエス様は有名人になって、スポットライトを浴びたかった訳ではありませんでした。

だからイエス様は言われました。

「自分の意見だけをまくし立てる人は、実はわが身がほめられたい一心なのです。しかし自分をお遣わしになった方の栄誉を求める人は、正直者です。」(LB)

イエス様は、神からかどうかは、自分の栄光を求めているのか、それとも、イエス様の栄光を求めているのかどうかで分かると言われました。

Soli Deo Gloria!

ヨハネ 6章

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(6:40)

五つのパンと二匹の魚で5千人を養う奇跡を見ても、その権威ある教えを聞き、病気が癒やされる奇跡を見ても、人は信じようとしなかったと言います。

それでもなお、イエス様は、父なる神が導く人々を受け入れ、守り、命を与えると言います。

なぜなら、それが父なる神のみこころだからと言います。

父なる神のみこころ、それは、イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つことです。

イエス様がこの世に来られた目的は、父なる神のみこころを行うことでした。

イエス様を頭とするキリスト教会も同じです。

キリスト教会が存在するのはただ、父なる神のみこころを行うためです。

ですから、キリスト教会は、神が導かれた人々に、聖書の御言葉を語り続け、聖書の御言葉を教え続けます。

ヨハネ 5章

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(5:39)

聖書は、イエス様について証言しているものです。

ですから、イエス様を中心に聖書を読まないと、聖書を本当の意味で理解することはできません。

どんなに原語を勉強しても、どんなに研究書を読んでも分かりません。

どんなに修行を積んでも、祈っても、イエス様を中心に読まないと分かりません。

イエス様は続けてこう言われました。

「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

聖書を読むならば、イエス様のもとに来るものだということです。

聖書をイエス様を中心に読み、本当の意味で理解したならば、イエス様を求めて、イエス様のもとに来るものだと言います。

イエス様のもとに導かれないならば、それは、聖書の読み方に問題があるということです。

ヨハネ 4章

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」(4:23)

「御霊と真理によって」という意味は、礼拝には、霊的な側⾯と、御⾔葉にしっかりと根ざした理性的な側⾯の両⽅が必要ということです。

聖霊に導かれるものでなければなりませんが、同時に、御⾔葉にしっかりと根ざしているものでなければなりません。

聖霊を認めない御⾔葉の真理だけの強調は、結局、死んだ伝統を⽣み出します。

逆に、御⾔葉の真理のない聖霊運動は、結局、ぶっ飛んでしまい、何も⽣み出しません。

神が求められているのは、⼼の伴わないみせかけの礼拝ではありません。

神は私たちの⼼の中をご覧になっておられます。

ただ、どんなに誠実であっても、誠実に間違っていることがあります。

⾃分が礼拝したい神に対してではなく、聖書に記されている神に礼拝を捧げることが重要です。

ヨハネ 3章

「風は思いのままに吹きます。」(3:8)

原文のギリシア語では、「風」も「霊」も同じ単語です。

それで、ここでは「風」と「聖霊」をかけてイエス様は語られています。

「聖霊」は、得体の知れない力ではなく、三位一体なる神の第三位格です。

人格(ペルソナ)をもった神です。

聖霊は、ご自分の意志で、ご自分の好むところに働かれる力ある神です。

聖霊にも好みがあります。

ですから聖書は言います。

「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ4:30)

聖霊を悲しませる行為、それは、

「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなど」(31節)

だと言います。

私たちは聖霊の働きなくして何もできません。

神様の臨在に満ち溢れた場所となることを願うならば、常に心に留めなければならないことがあります。

それは、

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(32節)

ヨハネ 2章

「イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」」(2:19)

初代教会の殉教者、ステパノが訴えられた理由はこれです。

「『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」」(使徒6:14)

目に見える物質的な神殿が、新しい霊的な神殿であるキリスト教会に置き換えられるというのは初代教会が語っていたことでした。

だから、使徒パウロも言います。

「私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(2コリ6:16)

ユダヤ人が民族的象徴としていた第二神殿は、紀元前十九年からヘロデ大王が改築していた神殿です。

最終的に、紀元後六三年に完成しますが、七十年にローマ軍によって破壊されます。

しかし、キリストは復活し、教会は存在し続けています。