1サムエル 13:13-23

「主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。」(13:14)

サウル王は「美しい若者」(9:2)で「民のだれよりも、肩から上だけ高かった」(10:23)とあるように、外見は申し分ありませんでした。

しかし、「主が望んでおられるのは、ご自分に従う者」(LB)、その心が神の心と一致する者でした。

聖書のメッセージは一貫しています。

「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(2歴代誌16:9)

サウル王は信仰のテストに失敗しました。

神の命令を守るよりも、恐れに動かされてしまいました。

悔い改めるよりも、言い訳に終始しました。

神に信頼するよりも、人間的支援に頼りました。

神が求めているのは、神の心に生きる人(a man after his own heart)です。

1サムエル 13:1-12

「サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。」(13:11)

サウル王の失敗、それは、人しか見えなかったことでした。

「戦車三千、騎兵六千、それに浜辺の砂のようにひしめくほどの兵士たち」(LB)

に民は恐れ、隠れていました。

しかし、預言者サムエルは現れず、兵士たちはサウル王から離れそうでした。

サウル王は神のみこころを求めるのではなく、どのようにして統制が取れるかに心が向いていました。

そのため、彼は取り返しのつかない愚かなことをしてしまいます。

「人を恐れることは危険な罠ですが、主に頼れば安心です。」(箴言29:25LB)

1サムエル 12:16-25

「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。」(12:23)

預言者サムエルは、王が立てられた後も、民のために祈ることも、教えることも約束しました。

サムエルは自分の教えに耳を傾けずに王を求めた民に対して腹を立て、祈ることをやめることもできました。

どうせ耳を傾けないならばと、教えることをやめることもできました。

しかし、サムエルはそれは主の前に罪ある者となることだと言います。

つまり、サムエルが祈り続け、教え続ける理由は、神に対する恐れのゆえだと言います。

個人的な感情よりも、神を恐れ、神に仕えることを優先させることが神の民のあるべき姿です。

神のみこころを優先させる姿勢が大切です。

1サムエル 12:1-15

「さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。」(12:7)

「説き明かそう」と訳された単語は、判事の前での訴訟または裁判を意味する司法用語です。

LBはこのように訳しています。

「さあ、主の前に静かに立ちなさい。先祖たちの時代からこのかた、主があなたがたに対してどれほどすばらしいみわざを行ってくださったか思い出させよう。」

個人的に、主がなされた恵みを数えることも大切なことですし、聖書の御言葉から、主がなされた恵みを数えることも大切なことです。

いずれにせよ、神の御業を思い起こすならば、神の尽きることのない信実に圧倒されます。

私たちは神の素晴らしい御業を思い出す時が必要です。

今日は主の日。共に、主の御業を思い出し、礼拝を捧げましょう。

1サムエル 11:1-15

「サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」」(11:13)

サウルは十章でサムエルから油注ぎを受けた時にすでに王でしたが、アンモン人の手からヤベシュ・ギルアデの人たちを救うことを通して、王であることを内外に示し、王政が樹立されました。

この時、人々はサウルが王位につくことを反対した人々を処刑するよう願いましたが、サウルは勝利をもたらしてくださったのは主であることを指し示し、寛大に、赦しを宣言しました。

主が勝利をもたらしてくださったと信じているならば、自らの保身よりも、主が喜ばれることを行うことに心を向けるはずです。

残念ながら、サウルはこの後、この真理を手放してしまい、自らの保身に走り、混乱していきます。

1サムエル 10:17-27

「神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。」(10:26)

サウルが王に選ばれたとき、彼は自分が選ばれることを知っていたからだと思われますが、荷物の間に隠れていました。

そんなサウルを軽蔑していた人たちもいました。

しかし、そんなサウルに

「神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。」

と聖書は言います。どんなリーダーも一人では何もできません。

しかし、いつの時代も

「神に心を動かされた勇者たち」

が存在し、彼らがリーダーを支え、歴史を作ってきました。

聖書は言います。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

1サムエル 10:1-16

「それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに着きます。その町に入るとき、琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に、預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会います。」(10:5)

礼拝において音楽と楽器は重要な位置を占めていました。

特に音楽と楽器は預言活動にも伴っていました。

用いられていた楽器も現代風に言うならばギターやドラム、フルートやピアノという感じでしょうか。

そのような意味で祈りの背後で楽器が奏でられるというのも聖書的と言えます。

興味深いことは、サウルはその中で、神の霊が激しくくだるのを体験し、彼自身も預言したということです。

そして、彼は新しい人に変えられたと言います。

今も、聖会や賛美集会などに集うことを通して、聖霊が臨み、変えられることがあります。

1サムエル 9:15-27

「サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」」(9:21)

当時、ベニヤミン族は最も小さい部族でした。

政治的に考えれば、力のある部族から王が選ばれるものだと思います。

ですから、サウルにとってサムエルの言葉は自分には相応しくないと考えたのだと思います。

しかし、神はあえて取るに足りないものを選ばれ、力をあらわされるお方です。

パウロは言います。

「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(1コリント1:26-28)

1サムエル 9:1-14

「あるとき、サウルの父キシュの雌ろば数頭がいなくなったので、キシュは息子サウルに言った。「しもべを一人連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」」(9:3)

サウルは誠実に父の求めに応じてろばを捜しにいきました。

それは、特別な出来事ではなかったようです。

しかし、ろばを発見できずに、帰ろうとしたその場所で、サムエルと遭遇します。

サウルのように神の導きは誠実に日々の働きに従事する中で導かれていくものということだと思います。

ですから、私たちは日々与えられた目の前の働きを、どんな小さなことでも誠実に行うことに勤しみたいと思います。

イエス様は言われました。

「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」(ルカ16:10)

なかなか見つからないのは不思議な主の導きかもしれません。

不平不満を言わず、主に期待して誠実に生きていきましょう。

1サムエル 8:10-22

「サムエルは、自分に王を求めるこの民に対して、主のすべてのことばを話した。」(8:10)

サムエルは民に人間の王を求めることは、神を拒む行為だとはっきり警告します。

「その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたに答えはしない。」(18節)

と、祈っても答えてくださらない関係となることを告げます。

それでも頑なな民は言います。

「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(19,20節)

民は、ある意味、この世の常識に生きていました。

そして、神はそれが何を意味するかを民が体験的に知ることを許されました。

この後、民は人が権力を持つと腐敗するということを痛い思いをして学びます。

神が王であることが最善であることを学びます。