マタイ 27:15-26

「総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」」(27:21)

イエス・キリストは当時の宗教指導者たちにねたまれ、捕らえられ、ローマ帝国の法廷に連れて行かれました。

ユダヤ総督ピラトは、自分で判断することをせずに、責任を分割させるかごとく、群集にイエスかバラバかを選択させました。

バラバは「名の知れた囚人」(16節)でした。

いのちを与えるキリストか、いのちを奪うバラバか、

愛によって解放を与えるキリストか、暴力によって解放をあたえようとしたバラバか、

群集の選択は、バラバでした。

群集がいつも正しいとは限りません。

私たちは生きていく中で、常に「イエスかバラバか」という選択に迫られて生きています。

いつも、イエス様を選ぶことができるように、聖霊様の助けを求めて、常に祈り、群集のご機嫌をとるのではなく、聖書のみことばに耳を傾ける必要があります。

今日は洗足木曜日。イエス様が最後の晩餐で弟子たちの足を洗われたことを覚える日です。

マタイ 26:36-50

「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。」(26:36)

なぜ、イエス様は弟子たちをあえて「ゲッセマネという場所」に連れて行ったのでしょうか?

それは、第一に、弟子たちに模範を示すためです。

第二に、私たちが弟子たちの姿から学ぶためです。

弟子たちは、イエス様が一緒に目を覚まして祈っていて欲しかった時、眠ってしまいました。

私たちの周りには、今、暗闇に直面している人たちがいます。

病気、死、迫害など、恐れの中で、その人にとっての「ゲッセマネという場所」で祈っています。

その人たちの心の叫びは、イエス様と同じだと思います。

わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚まして」(38節)祈っていて欲しい…。

その人の「ゲッセマネという場所」を理解して、その人を覚えて祈ることができますように。

マタイ 26:26-35

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(26:28)

最後の晩餐は過越の食事でした。

この箇所に出てくる杯は、夕食の後に飲む三杯目の、贖いの杯だと考えられています。

この時、出エジプトの時に神が宣言された約束を告白します。

「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。」(出6:6)

この時、イエス様は

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

と言われました。

すなわち、神が伸ばされた御腕で贖うという約束は、今、イエス様が十字架で死なれたことによって、イエス様の血潮によって成し遂げられたということです。

最初の過越が、イスラエルが神の民であることを示す契約につながったように、今、キリストにある新しい神の民が形成されているということです。

マタイ 26:6-16

「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」(26:7)

問題は「非常に高価」だったということです。

彼女にとって、イエス様の存在がそれ以上に価値があったということです。

「イエス様、あなたはその価値があるお方です!」と、彼女は告白しているのです。

礼拝を英語ではワーシップ(Worship)と言います。

それは価値(worth-ship)を認めることです。

文字通り、彼女はイエス様を礼拝したのです。

残念ながら、イエス様の弟子たちはこれを見て、

「無駄なこと」

だと批判しました。

しかしイエス様は言われます。

「わたしに良いことをしてくれました。」

聖書は言います。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

ユダ 17-25

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(20,21節)

原文ではこの文章の命令形の動詞は「保ち」だけ(後は分詞)です。

神が命じているのは、神の愛のうちに自分自身を保つことです。

そのために、三つのことが挙げられています。

一、聖なる信仰によって教会を建て上げること。

教会を建て上げる働きに携わることを通して、保つことができます。

二、聖霊にあって祈る習慣を身につけること。

神の臨在の中で祈る習慣を身につけることによって、保つことができます。

三、主イエス・キリストを待ち望むこと。

主がいつ来られてもいいような生活を心がけることによって、保つことができます。

今日は主の日(棕櫚の主日)。共に、主に礼拝を捧げましょう。

ユダ 1-16

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(3節)

信仰のために戦う必要があります。

聖書は言います。

「神を信じるすべての者に与えられた真理のことばを守るために、勇敢に戦ってほしいということです。」(LB)

いつの時代も、「唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定している」(4節)人たちがひそかに忍び込んできます。

イエス・キリストの十字架の御業を否定する人たちと戦う必要があります。

イエス・キリストの復活を否定する人たちと戦う必要があります。

「彼らはいつも不平を言うだけで、ただ欲望のままに歩んでいます。どんな悪事でも平気で行い、大口をたたき、彼らが少しでも人をほめるとすれば、相手から何かをもらおうという魂胆がある時だけです。」(16節)

1サムエル 31:1-13

「そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。」(31:12)

サウル王は、神に捨てられ、悲惨な最期を迎えました。

しかし、どんなに問題だらけであっても、サウル王は神に油注がれた者として敬意をもって葬られることになります。

勇士たちは立ち上がり、夜通し歩いて、サウル王と息子たちの死体を取り、運んできて、埋葬しました。

サウル王は在位中、不名誉な行為をしましたが、王としての立場は名誉あるものとして扱われました。

それは、神の油注ぎに対する敬意でした。

ですから、ダビデは彼を尊びました。

勇士たちも尊びました。

私たちも神を恐れ、すべての人を敬うことが求められています。

「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。」(1ペテロ2:17)

1サムエル 30:16-31

「ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」」(30:23,24)

ダビデの部隊の二百人の者は疲れきって前進を断念しました。

ダビデと一緒に行って戦った四百人の中に、意地悪な人がいて、一緒に行かなかった人には戦勝品を分けることはできないと言いました。

すると、ダビデは神の恵みをそのように扱ってはいけないと注意します。

神の恵み、福音を理解しているならば公平な扱いをするものです。

イエス様は言われます。

「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)

1サムエル 30:1-15

「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」(30:6)

ダビデたちは戦場を離れて、自分たちの本拠地に帰ってきました。

しかし、彼らが出陣していた間に、アマレク人が侵入し、彼らの街を焼き、家族は捕虜として連れ去られていました。

家族を失った兵たちの苦々しい思いはダビデに向かいました。

その時、ダビデは神を信頼することによって自らを力づけました。

自分の力ではもう先に進めないと感じる時があります。

ダビデは、自らの力ではなく、主によって自分自身を励ましたと言います。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ4:6)

主によって自分自身を励ましたダビデがまずしたこと、それは、自分がどうすべきか主に尋ね求めることでした。

聖書が教える失望への対処、それは、主によって自分自身を励まし、神のみこころを尋ね求めることです。

神は私たちを励まし、私たちを導かれます。

1サムエル 29:1-11

「ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」」(29:8)

二七章で、ダビデはサウル王が信用できず、イスラエルに敵対しているペリシテの地に行きました。

サウル王のダビデに対する敵意を知っていたペリシテの王はダビデを歓迎しました。

この時、ダビデが神に祈ったということは記されていないので、ダビデが自分の考えでそうしたことが分かります。

その結果、ダビデの人生は嘘に塗り固められ、自らを苦しめることになります。

その決定的なのが、神の民であるイスラエルと戦うために、ペリシテ人たちと一緒に出陣するということでした。

ダビデのジレンマは、何もすることなく解決しました。

ペリシテ人の領主たちがダビデを拒絶したのです。

ダビデの失敗にも関わらず、神が介入されました。

聖書は言います。

「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。」(2テモテ2:13)

キリストは私たちを見放すことも、見捨てることもありません。