2サムエル10:1-19

「ハダドエゼルに仕えていた王たちはみな、彼らがイスラエルに打ち負かされたのを見て、イスラエルと和を講じ、イスラエルに仕えるようになった。アラム人は恐れて、再びアンモン人を助けようとはしなかった。」(10:19)

ダビデ王はアラム人(シリア)に対して大勝利を収めました。

彼の王国は広げられ、揺らぐことはないように見えました。

民は一致し、諸国はイスラエルを恐れて、和を講じるようになりました。

しかし、ダビデ王はこの直後に、大失態を犯します。

大成功した時ほど、危険な時はありません。

人々が称賛する時ほど、注意が必要な時はありません。

聖書は言います。

神は私たちに、すべての悪い欲望に立ち向かうための強い力を与えてくださいます。神は高慢な者を退け、謙遜な者に力をお与えになります。ですから、神の前に謙遜になりなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。悪魔はしっぽを巻いて逃げ出すでしょう。」(ヤコブ4:6,7LB)

2サムエル 9:1-13

「ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」」(9:1)

ダビデ王がヨナタンの息子、メフィボシェテを見つけ出し、恵みを施し、財産を返還して回復を与え、王の食卓で食事をするようにしたことは、私たちに対する神の愛を象徴しています。

アダムが神に背いて罪を犯して以来、人は失われていました。

しかし、神は失われた私たちを見つけ出し、救ってくださいました。

神は私たちに回復を与え、神の御国の食卓(礼拝)に招いてくださっています。

すべては、神の御子イエス・キリストが人となって、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださったからです。

神はイエス・キリストのゆえに真実を尽くされるのです。

2サムエル 8:1-18

「ダビデ王は、それらもまた、主のために聖別した。彼が征服したすべての国々から取って聖別した銀や金、すなわち、アラム、モアブ、アンモン人、ペリシテ人、アマレクから取った物、およびツォバの王、レホブの子ハダドエゼルからの分捕り物と同様にした。」(8:11,12)

ダビデ王は多くの銀や金を集めました。

それは私服を肥やすためではなく、神殿建築のためだったと言います。

ダビデ王は神殿を建てることは許可されませんでしたが、神殿を建てるための必要を集め続けました。

ダビデ王は「自分が建てることができないなら、自分は何もしない」とひねくれることはありませんでした。

思い通りに神が自分を用いてくれないからと怒りませんでした。

また、誰かがしてくれるだろうと無関心になることもありませんでした。

神の御国の働きに直接的に携わらなくても、その働きのための必要を集めることによってその働きを支えることも大切な働きです。

2サムエル 7:18-29

「ダビデ王は主の前に出て、座して言った。」(7:18)

ダビデ王は自分の王座から降りて、主の前に座すことによって、まことの王としての主導権を主に委ねました。

神をまことの王として歓迎したのです。

ユージーン・ピーターソンは

このように神の御前に座して、最終的に何もしないということはありえない

と言います。

ダビデ王は座す前にもいろいろやりましたが、座した後も多くのことをなしました。

神は命じられ、私たちは従います。

神は遣わされ、私たちは出て行きます。

信仰生活は、聖霊様がキリストの働きを私たちを用いて、私たちを通して能動的に行われるものです。

神の前に座して、そこから立ち上がれなくなるということはありません。

ダビデ王が座した時、その時、歴史が動きました。

ダビデ王が神の家を建てるのではなく、神がダビデ王の家を建てられました。

神に従い、すべての結果を神に委ねること

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル 7:1-17

「行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。」(7:5)

ユージーン・ピーターソンは、

ダビデの神のための建築計画は、神のダビデのための建築計画の妨げとなることを現した

と言います。

あなたはわたしの家を建てたい?忘れなさい。わたしがあなたに家を建てているのだ。ここでわたしが形造っている王国は、わたしのためにあなたが何をするかではなく、あなたを通してわたしが何をするかなのだ。わたしがここで建てている。あなたではない。わたしはあなたがわたしのためと建築を始めることによって、このことを混乱して欲しくない。・・・もし、わたしがあなたの建築計画を許可するならば、人々はわたしが何をしているかではなく、あなたがしていることに捉われてしまうだろう。・・・あなたはわたしが家を欲しいだとか必要だとかという考えをどこから得たのか?もし、そのような建築がなされるのならば、わたしがそれをする。わたしはあなたが羊飼いの時から働いている。あなたは、わたしが働いているということの象徴としてここにいる。あなたがしていることに注目させるためではない。

ダビデは、自分が神のためにすることを考えていました。

しかし、神がダビデのためにしていることに、ダビデは従順することを学ぶ必要がありました。

主語は「神」です。

2サムエル 6:16-23

「ダビデが自分の家族を祝福しようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」」(6:20)

「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。」(18:20)

そして、ダビデはサウル王との約束を果たして、ミカルを妻としました。

しかし、サウル王がダビデの命を狙ったので、ミカルはダビデを命懸けで逃がしました。

サウル王は、ミカルを別の人に嫁がせます。

逃亡中、ダビデも多くの妻と側女を娶ります。

サウル王の死後、ダビデはミカルを返してもらいますが、二人の関係は修復できないものとなっていました。

「ダビデの妻」ではなく、「サウルの娘」と記録されているところに、ミカルの悲劇を感じます。

肩書ではなく、一人の人として認めることがどんなに大切かが分かります。

2サムエル 6:1-15

「彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。」(6:3)

ダビデは神の臨在を示す神の箱をエルサレムに運び入れようとしました。

神の箱は祭司の肩に担がれて運ばれなければならないと聖書に書いてあります。

しかし、ダビデはより良い方法と思ったのか、荷車に載せました。

これはペリシテ人の方法でした。(1サムエル6章参照)

結果は悲惨でした。

ダビデは正しいことをしようとしましたが、間違った方法だったのです。

教会も同じ間違いを犯す危険があります。

聖書の御言葉ではなく、この世の方法で、神の目的を成し遂げようとしていないでしょうか。

聖書は言います。

「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒2:42,47)

神の働きを神の方法で行う必要があります。

2サムエル 5:13-25

「ダビデが主に伺うと、主は言われた。」(5:23)

ペリシテ人が攻め上ってきた時、ダビデは神に祈り、神はダビデにペリシテ人のところに攻め上るように言いました。

「ダビデはそこで彼らを討って、「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」と言った。それゆえ、その場所の名はバアル・ペラツィムと呼ばれた。」(20節)

ダビデはどんな敵でも打ち破られる主を体験しました。

それから22節で、再びペリシテ人たちが攻め上ってきます。

前回と同じようにすれば良いと思うのが普通だと思います。

しかし、ダビデは自分の判断に頼らず、再び主に祈り、主に伺いました。

今度は別の戦略を神はダビデに与えました。

「ダビデは主が彼に命じられたとおりにし」(25節)、

大勝利を収めました。

神に従うことは、神を分析し、神の法則を発見することではありません。

常に神に祈り、常に神に従い続けることです。

2サムエル 5:1-12

「ダビデは、主が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。」(5:12)

「油を注ぐ」というのは、神がその人を特別な務めに選ばれたことを示しました。

ダビデは人生の中で三回油を注がれます。

まず、預言者サムエルから油を注がれます。

「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(Ⅰサムエル16:13)

とあるように、それは信仰の油注ぎでした。

二回目は、2サムエル二章に出てきます。

全イスラエルの王ではなく、ユダ部族のみの王という希望の油注ぎでした。

そして、この五章では全イスラエルの王として、の油注ぎを受けました。

ダビデは自分をイスラエルの王として立ててくださったのは神であることが分かっていました。

だから、自分の栄光を求めることはありませんでした。

神が神の民を愛されるがゆえであると認識していたのです。

神が祝福されるのは、神が民を愛されているからです。

2サムエル 4:1-12

「ダビデは、ベエロテ人リンモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」(4:9)

レカブとバアナはイシュ・ボシュテの軍の隊長でした。

彼らはダビデが喜ぶに違いないと自分たちで判断し、イシュ・ボシュテを殺害します。

彼らは祈って行動したわけではありませんが、このように言います。

「今日、主はわが王のために、サウルとその全家族に復讐してくださったのです。」(8節LB)

しかしダビデは知っていました。

彼を「あらゆる苦難から贖い出してくださった」のは主なる神であることを。

ですから、ダビデは自分の手でサウルを討つことはありませんでした。

私たちは自分の力で神を助けようとして失敗することがあります。

神は不正を喜ぶことはありません。

私たちは、自分の判断で物事を進めるのではなく、自分の人生を主に委ねていくことを学ぶ必要があります。