使徒 1:1-11

「こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。」(1:9)

復活したイエス様は四〇日間いろいろな場所で弟子たちに現れました。

ペンテコステの日の十日前、イエス様は弟子たちが見ている間に天に上げられ、見えなくなりました。

イエス様の昇天はペンテコステを理解する上でとても重要です。

使徒ペテロはペンテコステの出来事をこのように説明しました。

「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(2:33)

つまり、ペンテコステはイエス様が昇天されて、「神の右に上げられた」結果ということです。

「神の右に上げられた」と言う意味は、旧約聖書で預言されてきたダビデの子である来るべき王、メシアに与えられた王座に着座されたということです。

今日は主の日。共に御座に座す主に礼拝を捧げましょう!

哀歌 5:15-22

「主よ。あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの王座は代々に続きます。」(5:19)

廃墟という現実の中でエレミヤがしたことはまず、御座に座す主を認めたことでした。

「御座に着かれ」という意味は、神がすべてを治めておられるということです。

次に、神の恵みを思い返しました(20節参照)。

要するに、神は私たちを忘れることも、見捨てることもできないということです。

そして、主のみもとに帰らせてくださいと祈りました(21節参照)。

「主のみもとに帰る」こと、それが、「悔い改め」です。

私たちは神に降参して、神のみもとに帰る必要があります。

苦難、試練は、神のみもとに帰るためにあると言っても過言ではありません。

「私たちを連れ戻してください。神よ、あなたのもとに。私たちは戻る準備が出来ています。新たな始まりを私たちに与えてください。」(21節MSG)

神は、「新たな始まり」、「フレッシュ・スタート」を与えてくださる神です。

哀歌 5:1-14

「主よ。私たちに起こったことを心に留め、私たちの汚名に目を留めて、よく見てください。」(5:1)

預言者は主に「心に留め」てくださいと祈ります。

私たちに起こったことを「忘れないでください」ではなく、「現状を把握して、変化させてください」と祈ったということです。

なぜなら、主だけが汚名を取り除くことができるお方だからです。

イスラエルの未来は主の御手の中にあることを預言者は理解していたからです。

預言者は祈りの課題を挙げるように、主に訴えます。

主だけが状況を変えることができることを知っているからです。

私たちも預言者のように祈ることができます。

ユージーン・ピーターソンは、廃墟に直面しても私たちがパニックにならないように、廃墟が災いでないと学ぶ必要があると言います。

そして、神は罪を取り扱うことによって私たちの人生を全面的に回復されるから、癒しを焦ってはいけないと言います。

哀歌 4:11-22

「主は憤りを出し尽くし、燃える怒りを注ぎ出された。主はシオンに火を放ち、火はその礎を焼き尽くした。」(4:11)

哀歌は苦しみが扱われているのと同時に神の怒りとの遭遇が歌われています。

ただ、神の怒りの結果としてエレミヤは祈りに導かれています。

苦しみの中で、悔い改め、神の贖いを求めています。

神の怒りは神が気にかけておられる証拠です。

神は私たちのことに関心をもっておられるがゆえに怒られるのです。

神は個人的に私たちに関わり、絶望から引き上げ、悔い改めに導き、信仰に、そして、希望に導こうとされています。

だから、状況ではなく、誰かではなく、自分の感覚でもなく、聖書の御言葉に耳を傾ける必要があります。

当時の偽預言者たちは、人々が聞きたがる言葉を語り、滅んでしまいました(13節)。

だから聖書は言います。

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(2コリント7:10)

哀歌 3:55-66

「私があなたを呼び求めると、あなたは近づき、『恐れるな』と言われました。」(3:57)

原文を直訳すると、

「あなたは近くに来られた。私があなたを呼んだその日に。」

となります。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え」(エレミヤ33:3)

と約束された主は、確かに、私たちの祈りに答えて、私たちの近くに来てくださいます。

そして、『恐れるな』と言われるとあります。

同じ表現がエレミヤ書に出てきます。

「わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」(1:7,8)

神は、恐れの中にいる人、傷ついている人を慰められるお方です。

今日も、『恐れるな』という言葉をもって私たちを励ましています。

哀歌 3:40-54

「私たちは背き、逆らいました。あなたは赦してくださいませんでした。」(3:42)

イスラエルの民の問題は、自分は間違っていないと自分を正当化していたことでした。

彼らは神が赦してくださらないのが不当だと不満を述べていたのです。

彼らの

「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」(40節)

という発言も、口先だけでした。

だから、神が祈りを聞いてくださらないから自分たちは「ごみ屑」(45節)のように扱われていると不満を言ったのです。

私たちは神は神であることを認める必要があります。

人は人であり、永遠に神になることはありません。

神はいつも正しく、人はすべてを理解することはできません。

だから、聖書は言います。

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

哀歌 3:19-39

「それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」(3:23)

ある牧師は、神が睡眠をとるように人間を造った理由をこう説明します。

「十六時間もたてば、人はいろいろと失敗して、新しく始め直す必要があることを、神が知っていたからだ」。

毎朝、毎朝、

「この日は主が造られた!」

と新しいスタートを切る事が出来ることは、素晴らしい神のあわれみの世界です。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)

と信じることができることは幸いです。

メッセージ訳では

それは朝ごとに新しい。

というのを、

それらは毎朝、新しく造られる

と訳しています。

神の恵みの世界は、毎朝、新しく造られると言います。

神は無から有を造られる創造主です。

道なきところに道を造られるお方です。

神はご自身の真実をもって、創造的に、偉大な恵みの世界を毎朝つくっておられます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

哀歌 3:1-18

「私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、」(3:8)

聖書を読むときに、私たちが注意しなければならないことを、聖書が文学的に書かれているということです。

哀歌は、歌であり、私たちの感情部分を扱っています。

つまり、今日の箇所が教えていることは「祈りは聞き入れられない」という内容ではありません。

苦難の中で、信仰の先輩たちもまた、そのように感じることがあったということを教えているのです。

実際、この直後、エレミヤは言います。

「主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。」(3:25)

ですから、たとえ聞き入れられていないと感じることがあっても、祈り求め続ける姿勢が大切です。

主を求めるたましいに、主はいつくしみ深いからです。

主は必ず答えてくださいます。主の信実は尽きません。

「それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」(3:23)

哀歌 2:18-22

「夜、見張りの始まりに、立って大声で叫べ。あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたるところで、飢えのために衰えきっている。」(2:19)

愚かな大人たちの決断によって、幼子たちが苦しむという構図は、昔も今も変わりません。

バングラデシュの村の教会を訪問するたびに、幼子たちが、明らかに栄養失調のような体で微笑みかけるのを見るたびに、私は、心苦しくなります。

もっとも、物質的な飢えも問題ですが、日本でも、霊的飢餓状態に陥っている現状を心に留める必要があります。

神の御言葉を食す機会もなく、霊的飢えのために弱り果てている子どもたちがいることを、私たちは心に留めたいと思います。

聖書は言います。

「あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。」

私たちは神の前に降伏し、祈るように求められています。

哀歌 2:11-17

「あなたの預言者たちは、あなたについて、むなしい、ごまかしの幻を見た。あなたの咎を暴いて、あなたを元どおりにしようとはせず、あなたについて、むなしい宣告と、惑わすことばの幻を見た。」(2:14)

イスラエルの偽預言者たちの問題は、民の聞きたいことを語っていたということです。

「あなたの罪を指摘して、何とかしてあなたが奴隷にならないようにしようと、努力することもありませんでした。うそを並べ立て、万事うまくいくと言ったのです。」(LB)

罪の中に生きている人たちに必要なのは、安心させる言葉ではありません。

なぜなら、罪から立ち返らなければ滅びしかないからです。

たとえ耳に心地よい言葉でなくても、真理を語る必要があります。

教会は人をいい気持ちにするためにではなく、人々を主に立ち返らせるために、神の真理のことばを真っ直ぐに語る責任があります。