ヘブル 9:11-22

「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(9:12)

使徒パウロは、

「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)

と言いましたが、イエス様は文字通り

ご自分の血によって・・・永遠の贖いを成し遂げられました。

イエス様が十字架で流された血潮は、すべての人を贖うのに十分な値でした。

ですから、「ただ一度」で十分でした。

今、救われるために、イエス様を信じるだけでは十分でないという人は、このイエス様の十字架を冒涜していることと同じことです。

イエス様が流された尊い血潮は、信じる者をきよめる力があります。

神は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリストの血と私たちの信仰とを用いられました。」(ローマ3:25LB)

ヘブル 9:1-10

「聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。」(9:8)

イエス様が十字架にかかり、死なれた時、

神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マルコ15:38)

と記録されています。

神殿の幕は、契約の箱が置いてあった第二の幕屋と、祭司たちが務めを果たしていた第一の幕屋(6節)との間を分けていた幕でした。

要するに、イエス様の十字架が「聖所への道」を明らかにしたということです。

大胆に恵みの御座に近づく道が明らかにされたということです。

イエス・キリストの十字架の御業なしに、至聖所への道は開かれることはなかったということです。

私たちは大胆に主のみ前に出て祈ることができるということの素晴らしい特権を当たり前のことのように思うべきではありません。

この素晴らしい特権を感謝して、大胆に恵みの御座に出て祈ろうではないでしょうか。

ヘブル 8:1-13

「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。」(8:1)

ささげ物といけにえを捧げるために大祭司が任命される理由は二つありました。

一つ目は、神の臨在の中に入るためです。

二つ目は、血を流すことが、そのことを可能としたということです。

しかし、問題は、任命された祭司は人間であり、限界がありました。

人間は眠る必要がありますので、ずっと続けられるわけではありません。

また、動物の血も完全ではありませんでした。

ヘブル人への手紙が教えていることは、私たちの大祭司、イエス・キリストには、このような限界はないということです。

イエス様は完全な人間であると同時に、完全な神です。

「要するに、私たちにはまさにそのような大祭司がいるのです。神と並んで権威を持ち、神によって建てられた唯一の真の聖所で礼拝を執り行っているのです。」(1,2節MSG)

ヘブル 7:23-28

「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。」(7:24)

「祭司」はラテン語でpontifexと言います。

意味は「橋をつくる人」(pons-facio)。

イエス・キリストは私たちの大祭司として、神と人との橋をつくられた方です。

神と人との間には誰も越えることが出来ない罪という溝があります。

どんなに善行を積んでも、修行を積んでも越えることはできません。

渡る唯一の方法は、十字架によって橋をかけられたイエス・キリストを信じることです。

イエス・キリストは死からよみがえられ、今も生きておられますから、信じる者をすべて救われます。

だから聖書は約束します。

「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(25節)

ヘブル 7:10-22

「この方について、こう証しされています。「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である。」」(7:17)

どうして、メルキゼデクの話題が重要かと言いますと、こういうことです。

アブラハムの孫、ヤコブには十二人の子どもがいて、それでイスラエルは十二部族となります。

その後、モーセを指導者として、エジプトを脱出したイスラエルの十二部族は、シナイ山で神と契約を結びます。

その時、十二部族の一つ、レビ族が、祭司の部族として選び分けられます。

この後、レビ族が祭司家系となります。

やがて、ダビデが王となった時、神がダビデと契約を結び、ダビデの子孫からメシアが登場することを約束します。

ダビデは、レビ族ではなく、ユダ族でした。

つまり、メシアはレビ族ではなくユダ族でなければなりませんでした。

イエス様はユダ族です。

ですから、イエス様が大祭司という発想は、イスラエルの十二部族からの発想では不可能だったのです。

ヘブル 7:1-10

「このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。」(7:1)

創世記14章で、アブラハムが「いと高き神の祭司」、メルキゼデクにすべての物の十分の一を捧げたことが記録されています。

つまり、レビ族が誕生する前に、「いと高き神の祭司」という祭司職が存在していたということです。

この説明が、7章全体でなされていますが、簡単にまとめますとこういうことです。

イエス・キリストは、約束されてきたメシア、王であり、「いと高き神」の祭司であると言うことです。

「いと高き神」をヘブル語で「エル・エルヨーン」と言います。

エル・エルヨーンとは、宇宙全体の主権者、最高の支配者としての神を示す御名です。(中略)神は支配し君臨されるので、誰も、どんな御使いも、どんな悪霊も悪魔も、またどんな人生の境遇も、神のご計画を妨げることはできないのです。」(ケイ・アーサー)

ヘブル 6:13-20

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」(6:19)

聖書は私たちの人生に嵐が起こらないとは約束していません。

「錨」が備えられているという話自体が、人生に嵐はあるものだと示唆しているようなものです。

聖書が約束していることは、どんな嵐があったとしても、「信頼できる不動の錨」があり、私たちは揺るがされることはないということです。

私たちが錨を降ろしている天の幕屋には、私たちの大祭司、イエス・キリストがおられます。

イエス・キリストの十字架の御業によって、イエス・キリストを信じる者は、神の臨在の中に錨をおろしているから、何があっても、動かされることはないということです。

主は言われます。

「わたしが持っているすべてのものであなたを祝福することを約束する。祝福し、祝福し、祝福する。」(14節MSG)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 6:1-12

「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。」(6:10)

「あなたがたの働き」は、使徒パウロがテサロニケの教会の人たちに対して伝えた内容と同じです。

「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」(1テサロニケ1:3)

生きている信仰は、働く信仰となります。

驚くことは、神は私たちの働きや愛を忘れたりなさらないということです。

だから使徒パウロは言います。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

ヘブル 5:1-14

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

イエス様がこの地上でどのように祈られたかが記されています。

大きな叫び声と涙をもって

とあるように、イエス様は、とても感情的な祈りをされたことが分かります。

これは、ゲッセマネの祈りのときだけではなかったと思います。

「敬虔」と訳された単語は、神への畏れという意味があります。

同じ単語の動詞形が11:7で使用されていて、

恐れかしこんで

と訳しています。

イエス様が恐れかしこんで祈ったがゆえに聞き入れられたという意味は、私たちに祈りの模範を示されたということです。

私たちの祈りは神に指図するような横柄な祈りであってはいけません。

神を畏れ、神のみこころに従う、祈りであることが大切です。

ヘブル 4:12-16

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(4:12)

神のことばである聖書のみことばは生きています。

なぜなら、聖書のまことの著者である神は今も生きて働かれているからです。

聖書のみことばは力があります。

なぜなら、聖書のまことの著者である神は、力ある神であり、今も生きて働かれているからです。

ですから、聖書のみことばが語られる時、人生が変えられ、世界は変革します。

「生きていて、力があり」という意味はまた、活動的という意味があります。

祈りをもって聖書を読み、自分の思いの中にしみ込ませ、イエス様との時間を過ごすことを通して、私たちはイエス様が触れてくださることを体験します。

それは両刃の剣のように鋭く、私たちの心を刺し貫くようなものかもしれません。

しかしそれは私たちをきよめ、いやすためです。