箴言 12:1-16

「人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。」(12:3)

イエス様は言われました。

「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23)

この世を見ると、悪いことをして成功しているように見える人がいます。

しかし、悪をもって身を堅く立てることはできません。

悪いことをしていて、人生が安定することはありません。

たとえ、しばらくのあいだ大丈夫に見えても、正義は必ず追いついてきます。

しかし、この世で生きていく中で正しく生きることがばからしく見えるときがあります。ですから聖書は言います。

「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

箴言 11:16-31

「おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。」(11:25)

リビングバイブルでは今日の箇所をこう訳しています。

物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。

寛大に生きることは、聖書的な生き方です。

聖書に、こういう箇所もあります。

気前よくささげる人は、大きな祝福を受ける。」(Ⅱコリント9:6現代訳)

与える人は与えられるというのが聖書が教える霊的な法則です。

もちろん、献金の話だけではなく、笑顔や祝福などを惜しみなく人々に与えている人が、大きな祝福を受けます。

なぜなら、「気前よく与える」というのは、神のご性質でもあるからです。

神は、物惜しみすることなく、私たち一人一人に今日も寛大に与え、私たちを潤してくださっているからです。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

箴言 11:1-15

「直ぐな人の祝福によって、町は高く上げられ、悪しき者の口によって、破壊される。」(11:11)

私たちの人生は、自分の家族や自分のコミュニティだけでなく、自分の町、自分の国にも影響を与えます。

11節をリビングバイブルではこう訳しています。

「神を信じる市民が良い影響を与えているうちは町は栄え、悪者たちによって道徳が腐敗すると、町はたちまち衰えます。」

具体的に箴言が教えることは、「人を中傷して回る者」(12節)は愚かです。

賢い人は不必要なことは話しません」(LB)と言います。

もちろん、それは今話題のSNSも含まれると思います。

信頼できる人はうわさ話を口にしません。」(13節LB)

いずれにせよ、

「人に親切にすると心が豊かになり、思いやりのないことをすると気持ちがすさみます。」(17節LB)

「悪いことをしてもうけた金はすぐになくなり、正しいことをして得た報酬はいつまでも残ります。」(18節LB)

箴言 10:17-32

「人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。」(10:22)

自分が苦労して富を築き上げてきたと自負する人は、貧しい人は苦労が足りなかったから貧しいのだと見下げる傾向があります。

そして、自分が苦労して得た富だと自負しているので、その富を人と分かち合うことは考えません。

しかし、謙遜に、主が祝福してくださったがゆえに富を築けたと考える人は、分かち合うことを喜びとします。

主を恐れるがゆえに富を分配し、祝福の基となります。

そもそも神が私たちを祝福される理由は、私たちが祝福の基となるためです。

聖書は言います。

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9)

私たちは、神のすべての良きもの、神の祝福を受け継ぐために召されています。

箴言 10:1-16

「不義によって得た財宝は役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。」(10:2)

十章からは「ソロモンの箴言」とありますが、テーマに沿ってと言うよりは、ランダムに箴言が収集されています。

それぞれ、選択肢は明確です。

知恵か愚かさか、善か悪か、いのちか死か。

選択するのは私たちであり、選択に伴う結果があります。

2節をLBは、こう訳しています。

「悪いことをしてもうけた金はすぐになくなります。どこまでも正しく生きることが幸福のかぎです。」

その理由は3節にあります。

「正しく生きている人を、主は飢えさせません。悪人は、せっかくもうけた金を主に取り上げられます。」(LB)

これが霊的な原則です。

神はご覧になっておられます。

ですから、たとえ今、悪人がもうけているように見えたとしても、主に信頼し、正しく生きるように心がけましょう。

主は必ず祝福してくださいます。

エペソ 6:18-24

「朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。」(6:24)

エペソ人への手紙は「不滅」(ἀφθαρσίᾳ)という単語で終わります。

新改訳では愛にかけて「朽ちることのない愛をもって」と訳しています。

ただ、原文では直前にあるイエス・キリストにかけるほうが自然に思えます。

「恵みが、私たちの主、不滅なイエス・キリストを愛するすべての人たちとともにあるように。」

イエス・キリストは永遠の主、滅びることなく、朽ちることのないお方です。

死もよみの力も、イエス・キリストを留めることはできませんでした。

イエス・キリストの支配は、永遠であり、イエス・キリストを信じて生きるとは、まさに、その永遠に生きることでもあります。

イエス・キリストは言われました。

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:35)

エペソ 6:10-17

「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」(6:11)

ナルニア国物語の著者、CSルイスはこんなことを言っています。

「悪霊に関して私たちが陥りやすい、二つの、等しく、かつ相反する間違いがある。一つは、悪霊の存在を信じないこと。もう一つは、不健全な興味を抱くことである。悪霊らは、この両方の間違いに喜び、物質主義者や魔術をする者を同じ喜びで迎える。」

悪魔の存在を否定することも危険ですが、悪魔に過度に焦点を合わせることも危険です。

大切なことは、神のすべての武具を身につけることです。

それは、イエス様に焦点を合わせること、すぐに起き上がること、福音宣教に積極的に関わること、困難な時に神を信頼すること、思いを守ること、神のみことばに浸かることです。

エペソ 6:1-9

「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(6:4)

パウロは、彼が生きていたローマ世界という文脈の中で、この手紙を書いています。

当時のローマ世界は、生まれてきた赤ちゃんが病気や障害があれば、平気で殺してしまう社会でした。

父親は家族に対し、絶対的な力を持っていて、子どもを奴隷として売ることもできましたし、鎖につないで働かせることもできましたし、死刑にすることさえできました。

この文脈の中で、イエス・キリストは言いました。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(マルコ10:14)

パウロは、このイエス様の教えを土台として語っています。

「主がお認めになる教育と、愛のこもった助言や忠告によって育てなさい。」(LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

エペソ 5:22-33

「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(5:32)

今日の箇所は、結婚を例として挙げていますが、結婚関係だけに限定する内容ではありません。

パウロが言いたいことは、結婚関係だけでなく、教会においても、あらゆる関係においても、互いに尊敬しあうことが大切だということです。

だから、続けてこう記されています。

妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

「尊敬すること」はすべての関係のカギです。

それぞれが大切にしていることを、否定するのではなく、尊重する必要があります。

32節をメッセージ訳ではこう訳しています。

これは、巨大なミステリーです。私は全部理解できているふりはしません。私に明確なのは、キリストが教会をどのように扱われたか。

分からないことはあります。

しかし、私たちが造られた目的は、キリストとの関係のためであることは確かです。

エペソ 5:15-21

「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」(5:19)

「心から歌い」というのは、声に出して歌うことで、「賛美しなさい」というのは、楽器を用いて奏でることと言われています。

「詩と賛美と霊の歌」がどんな音楽だったかは分かりません。

再現できるような楽譜も残っていません。

ただ、礼拝の中で、音楽が用いられていたことは確かです。

これは、多くの学者が指摘するように、その時代、その文化に合わせて、音楽は変化する必要があるという意味だと思われます。

讃美歌や聖歌と呼ばれるものの多くは、十九世紀ごろのリバイバル運動と呼ばれる中で出来たものがほとんどです。

当時の流行のメロディを用いて、替え歌にしたものが、多く含まれています。

「霊の歌」は、賛美の中で、聖霊様に導かれて即興で歌われた可能性があります。

新しい歌が生まれ、歌われるということは、聖霊様が働かれているという証明でもあります。