ルツ 2章

「モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』すると、ナオミは彼女に、『娘よ。行っておいで。』と言った。」(2節)

 スポルジョンの「朝ごとに夕ごとに」にこの箇所についてこんなコメントが書いてあります。「力を落として悩むクリスチャンよ。来て、今日、広大な神の約束の畑で落ち穂を拾え。そこにはあなたの願いを満たすたくさんの約束がある。(中略)落ち穂はあなたの目の前に置かれている。それを拾い集めよ。恐れるな。ただ信ぜよ。これらのすばらしい約束をつかみ、黙想によってもみがらを取り去り、喜びをもってそれを食べよ。」ルツの信仰は受動的ではなく行動的でした。ルツは落ち込んで、ナオミと一緒にあわれみをただ待っていたわけではありませんでした。私たちも聖書を開いてみことばを食べていく必要があります。

ルツ 1章

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」(6節)

 ナオミとその家族は約束の地、ベツレヘムに住んでいましたが、ききんがあったので異教の神々の地、モアブに移り住んでしまいました。問題と言うのは、そもそも私たちが膝を屈めて、神様に祈り求めるためにあります。しかし、ナオミたちは、神様に祈り求めることよりも、手っ取り早い解決を求めて、約束の地を離れてしまいました。その結果、彼女はすべてを失ってしまいました。すべてを失ったナオミは、主を待ち望む者に必要を満たされる神の現実を耳にします。「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」(詩篇145:15)驚くことは、神様のもとに戻ってきたナオミに、神様は回復を始められたということです。

Ⅰコリント 16章

「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願ってい
ます。」(7節)

 使徒パウロは、自分の宣教旅行計画をコリントの教会の人々に伝えるのです
が、こう付け加えました。「主がお許しになるなら。」ヤコブの手紙の中にこう
いう箇所があります。「明日どんなことが我が身に起こるか、どうして分かるで
しょう。・・・ですから、こう言うべきです。『主がお許しくださるなら、私
は、あのこと、このことをしよう。』」(4:14,15LB)神の民として、私
たちは未来に関してこのような柔軟な姿勢を持つ必要があります。自分の計画に
こだわって、神の介入を受け止めることができないのは、寂しいことです。神様
は私たちの人生を最善に導きたいと願っておられます。自分の願いに固執せず、
柔軟に対応していく必要があります。ある牧師はこう言います。「幸いなるか
な、柔軟な人。その人は、折れることはない。」
「主よ、柔軟な心を与えてください。」

Ⅰコリント 15章

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する
この神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働き
ました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(10節)

使徒パウロは、「今あるは神の恵み」と告白しました。恵みとは、受けるにふさ
わしくない者が受けることです。パウロは、自分が今存在し、自分が今携わって
いることを考えた時、過去の自分を振り返って、自分にはふさわしくないことに
畏れを感じたのです。しかしパウロはそれで終らずに、そのことをよく理解して
いたからこそ、神の恵みに感謝して、人一倍努力して神に仕えてきたと言いま
す。ところが、それでも考えてみると、自分が努力できたことでさえも、神の恵
みであったことを悟ったと言うのです。自分の功績を証するのでなく、パウロの
ように神の恵みに日々感謝して歩むことができますように。

Ⅰコリント 14章

「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」(40節)

 使徒パウロが、この14章で語っている内容は、40節にまとめられています。「何事も適切に秩序正しく行うようにしなさい。」(LB)コリント教会の問題は、極端で、混乱していたということです。教会の中で、誰もが好き勝手なことを言ったり、行ったりしたら大変なことになります。33節にこうあります。「神様は、無秩序や混乱の神ではなく、秩序と平和の神だからです。」(LB)。私たちの教会は、極端にならないように、バランスを大事にしています。教会の中だけでなく、様々な所でもこの原則を適用することができると思います。神様は秩序と平和の神ですから、どんなことにおいても、適切に秩序正しく行うことを心がけることは神様が喜ばれることです。自分が遣わされているその場所で、極端になって混乱をもたらせる者ではなく、秩序と平和をもたらすことができますように。

Ⅰコリント 13章

「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(3節)

Ⅰコリント13章は、「愛の章」と呼ばれ、よく結婚式で引用されます。「愛」というところに自分の名前を入れると、自分の愛のなさが痛いほど分かる箇所でもあります。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、どんなに献身的に慈善を行っても、結局、愛がなければ意味がないというのが聖書が教えている内容です。愛を語るのに、まず「寛容」(4節)があげられているのは興味深いと思います。「辛抱強い」という意味の言葉ですが、「寛容な心」がなければ結局意味がないということだと思います。大和の大川師が「本質以外は寛容であれ」と言っていますが、そのような寛容な心がなければ、何の役にも立たないと言っていることに、心を留めたいと思います。

「本質以外は寛容であることができますように。」

Ⅰコリント 12章

「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」(1節)

使徒パウロが「ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」と言っている箇所は、大体、今も世界の教会で混乱している内容です。今日の箇所以外に、イエス・キリストの再臨に関する箇所(Ⅰテサロニケ4:13)、イスラエルに関する箇所(ローマ11:25)で同じ表現が用いられています。「御霊の賜物」とは、聖霊なる神様が与えてくださる賜物、才能のことです。特にここでは、使徒パウロが超自然的な賜物に関して言及していますが、31節にこう記されています。「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」つまり、私たちは熱心に賜物が与えられるよう求める必要があるということです。自分の賜物は何かと考えるだけでなく、求めなさいと言うのです。そしてパウロは言います。「私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」「愛すること」はそれ以上に大事です。

Ⅰコリント 11章

「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」(21節)

教会は様々な人々が集まる場所であり、問題が起こるのもやむをえない場所でもあります。コリントの教会もそうでした。コリントの教会は食事会をもっていましたが、貧富の差から生じる愛のない行為が横行していました。この箇所でパウロは、教会における食事会の本当の目的を思い出すように言います。単に自分の食欲を満たすためならば、家で食べればいいとまで言うのです。大事なことは、キリストの愛、十字架型の生き方を実践することであり、互いを思いやることだと言うのです。イエス様は多くの人と共に食事をすることを楽しまれました。イエス様は自分の時間、食物を分かち合うことを楽しまれたのです。

「イエス様、どうか自分のことばかり考えるのではなく、分かち合う喜びを学べますように。」

Ⅰコリント 10章

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(31節)

 ウエストミンスター小教理問答書という中に、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」とあります。私たちの人生の根本的な原則がここにあります。私たちは、神の栄光のために生きているのです。「神に栄光を帰す」、これが私たちの存在目的です。もし、何であれ神に栄光を帰すことができるのであれば、私たちは堅い岩の上に立っています。私たちが、人生の中で、すべきがすべきでないか悩んだときに、これが基準になると思います。「私はこのことを、神の栄光のためにできるだろうか?」

「主よ、たとえ他の事柄をつかむことができなくても、この真理だけはつかませてください。ただあなたの栄光のために一日一日を生きることができますように。」

Ⅰコリント 9章

「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも
救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。」(22,23節)

 使徒パウロの願い、それは一人でも多くの人が、イエス・キリストに出会い、
救われることでした。LBではこの箇所をこう訳しています。「キリスト様のこと
を話し、その人が救われるためには、私はどんな人に対しても、対等の立場に立
とうと心がけています。これは、良い知らせを伝えるためであり、また、キリス
ト様に導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためでもあります。」彼は、
「私自身は同意していなくても、議論したりはしません。」(20節LB)と言
い、「『それは考えが足りない』などと指摘したりはしません」(22節LB)と
言います。彼は福音のためならなんでもすると言います。この魂に対する情熱が
クリスチャンに必要なのだと思います。
「主よ、使徒パウロのような、魂に対する情熱を与えてください。」