Ⅰサムエル 15章

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(22節)

 メッセージという訳ではこの箇所をこう訳しています。「神様が求めているのはただいけにえ・・・ショーのような空しい儀式だと思いますか?神様はあなたに聴いて欲しいのです。豪華な宗教的なプロダクションの上映ではなくて、普通に聴くことが大事なのです。」スポルジョンはこう言っています。「グレゴリア聖歌、祭服、香、旗について語ってはいけない。神がその子たちに第一に求められることは、従順である。たとえあなたが焼かれるために身を渡し、自分のすべての財産を貧しい人のために与えたとしても、もし主の教えに耳を傾けないならば、あなたのすべての形式は、あなたに益を与えない。」

Ⅰサムエル 14章

「ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。『さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。』」(6節)

前の章の22節で、イスラエル全軍の中で剣や槍をもっているのはサウルとヨナタンだけだったとあります。まさに、人数だけでなく、いろいろな意味でイスラエルは劣勢でした。しかし、神様にとってはそんなことは問題ではありませんでした。神様のみこころならば、妨げるものは何もありません。私たちは神様が働くことができるように、ヨナタンのように信仰の冒険をすることも大切なことです。たとえどんなに劣勢に見えても信仰の一歩を踏み出す時、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」ということを知ることができます。

Ⅰサムエル 13章

「サムエルは言った。『あなたは、なんということをしたのか。』サウルは答えた。『民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。』」(11、12節)

サウル王の問題は、自分が召されていないことを、周りからのプレッシャーのゆえにやってしまったということです。サウル王は祭司ではないのに、祭司がすべきことをプレッシャーのゆえにしてしまったのです。私たちは様々なプレッシャーのゆえに愚かな決断をしてしまうことがあります。人を操ろうとする人は、常にプレッシャーを与えて動かそうとします。私たちはどんなにプレッシャーをかけられても、操られないように神のみこころを求める時間を確保する姿勢が必要です。

Ⅰサムエル 12章

「役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。」(21節)

 人は神から離れてしまう時、役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに依存していく傾向があります。聖書は言います。「そのような人たちは、真理を信じることも愛することもせず、まして救われようなどとは考えもしなかったのです。そこで神様は、彼らがうそで丸め込まれるままに放っておかれるのです。」(Ⅱテサロニケ2:10,11LB)いわゆる知識人と呼ばれる人が、創造主なる神を拒絶するがゆえに、愚かで空しいものに丸め込まれていることを見ます。アウグスティヌスは、神が私たちを神ご自身のために造られたから、私たちの心が神のうちに憩うまでは、私たちの心が安らぎを得ることはないと言いました。「主よ、あらゆる惑わしから守ってください。」

Ⅰサムエル 11章

「サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。」
(6節)

 神の霊が人の上に下る時、何かが起こります。サウルは、神の霊が彼の上に激
しく下ったがゆえに力強いリーダーシップを発揮することが出来たことを聖書は
明記しています。旧約聖書ではこのような現象は、特別な時に、特別な人に、特
別な目的のために限られていました。しかし、ペンテコステの日、聖霊が弟子た
ちの上に下った時、すべては変わりました。使徒ペテロは、ヨエル書二章にある
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(28節)という約束
は、イエス・キリストを信じるすべての人に与えられていると言いました。(使
徒2:39参照)
一般的に、これを「油注ぎ」と呼んでいます。私たちは皆、これを必要としてい
ます。そして、キリストを信じるなら、誰にでも与えられます。「主よ、私に油
注ぎを与えてください。」

Ⅰサムエル 10章

 「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(26節)

神様がサウルを王として選ばれた時、すべての人がサウルを王として受け入れたわけではありませんでした。「こんな男に我々が救えるか」と、彼を侮った、ならず者たちもいました。しかし、神様に心を動かされた勇者たちが彼を支え、協力したことによってイスラエルの国の王制は確立しました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史を作ったのです。今から約二千年前、神の御子イエス・キリストに心を動かされた弟子たちは全世界に出て行き、世界をひっくりかえしてしまいました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史をつくったのです。今も同じように、生ける神様は、私たちの心に触れたいと願っています。神に心を動かされた勇者たちが教会を建てあげ、神の御国をこの世に現します。 「主よ、私たちの心に触れてください。」

Ⅰサムエル 9章

「三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」(20節)

 サウルはいなくなった雌ロバを捜して山地を巡り歩いていました。しかし、実は神様はサウルをサムエルに会わせるために雌ロバを用いただけでした。神様は同じように私たちの人生を導かれます。私たちは思い通りにいかないことに苛立ちを感じたりします。しかし実は、神様がその背後で私たちの人生を導かれているのです。私たちは理解できないことに苛立ちを募らせるのではなく、その背後で働かれている神様を透かして見、信頼し、委ねていく必要があります。リック・ウォーレン師は言います。「私の罪が問題の原因の時、私は悔い改める。もしサタンが問題の原因なら抵抗する。もし、状況が問題の原因なら、私はリラックスして神を信頼する。」

Ⅰサムエル 8章

「主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」(7節)

 イスラエルの人々は、生活が安定し始めると、神への思いが薄くなり、神の支配よりも人の支配を求めるようになっていきました。榎本師はこう言っています。「何か困難なことが起こったり、比較的責任のともなわない時代には、神を熱心に求めていた人が、生活が安定し、いろいろと地上的な責任を負わされるようになると、だんだんと神を恐れる思いが稀薄になる。そういう人が多いのではなかろうか。」神は今も神の民を直接治めたいと願われています。だから、イエス様はおっしゃられました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33新共同訳)「神の国」とは神の支配の下に生きることです。

Ⅰサムエル 7章

「彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。『私たちは主に対して罪を犯しました。』」(6節)

 様々な出来事があって、ようやくイスラエルの人々は、主を慕い求め始めました。そんな中でサムエルは、主に立ち返ること、すなわち、悔い改めを呼びかけます。すると人々は、「私たちは主に対して罪を犯しました。」と罪を告白したと聖書は言います。そして、イスラエルに霊的なリバイバルが起こります。リバイバルの歴史を研究しますと、それはいつも「罪の告白」から始まることが分かります。聖書は言います。「もし、自分には罪がないと言いはるなら、それは、自分をだましているのであって、真理を受け入れようとしない証拠です。しかし、もし自らの罪を神様に告白するなら、神様はまちがいなくそれを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8,9LB)「主よ、リバイバルを与えてください。」

Ⅰサムエル 6章

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。」(19節)

  旧約聖書において、大祭司以外が主の箱の中を見ることは許されていませんでした。罪ある人間が、そのまま神に近づくことは許されることではありませんでした。今も、人は私たちの大祭司であるイエス・キリストを通してでなければ神に近づくことはできません。だからイエス様はおっしゃられました。「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)人はただ、イエス・キリストによってのみ、父なる神に近づくことができます。ですから私たちはイエス・キリストのお名前によって祈ります。「イエス様、あなたの十字架の御業を感謝します。イエス様のみ名によって大胆に父なる神に近づくことができることを感謝します。」