ネヘミヤ 7章

「私は、兄弟ハナニと、この城のつかさハナヌヤとに、エルサレムを治めるように命じた。これは、ハナヌヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからである。」(2節)

ネヘミヤがエルサレムを治めるために任命した人は、誠実で、神を恐れる人でした。イエス様も言われました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」(マタイ25:21)小さなことにも誠実に生きているなら、やがて信頼を得て、より大きなものが任されるようになると言われました。誠実を英語では、FAITH(信仰)-FUL(充満)と言います。信仰に満ちている人こそ、誠実な人であると。確かに、神を人一倍畏れているならば、誠実な生き方になるのは明らかです。神はすべてをご存知であり、神をだますことは出来ないからです。どんな小さいことでも、神様を畏れて、忠実に行うことができますように。

ネヘミヤ 6章

「事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう。」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。」(9節)

 悪魔は、おどしをかけたり、だましたりして、神の民の気力を失わせようとしています。福音伝道をする気力を失わせようとしているのは悪魔です。教会を建てあげようとする思いを挫こうとするのは悪魔です。ですから、ネヘミヤのように主の前に膝をかがめ、主の助けをいつも求める必要があります。「私を力づけてください」と、祈り求める必要があります。私たちは、祈り続けるならばその結果を見ることができます。「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(15,16節)祈りましょう。主は成し遂げられます!

ネヘミヤ 5章

「私は彼らの不平と、これらのことばを聞いて、非常に怒った。私は十分考えたうえで、」(6,7節)

ネヘミヤは怒りました。人助けという名目で、抵当をとって金を貸す裕福な官僚たちに腹を立てたのです。ネヘミヤたちは奴隷生活から引きあげてきた人々を援助しようとできるだけのことをしてきました。しかし彼らは、そんなネヘミヤたちの働きを無にするがごとく、借金をさせて奴隷に戻そうとしていたのです。ネヘミヤの怒りは、9節にあるように、そんな神を恐れない裕福な官僚たちの姿に対する義憤からでした。しかし、ネヘミヤは感情に任せて事を行なうことはしませんでした。彼は十分考えたうえで行動しました。たとえそれが義憤であっても、感情に任せてすることは聖書的な方法ではありません。

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1:19,20)

ネヘミヤ 4章

「しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。」(9節)

 いつの時代でも、神のために働こうする人たちに対する悪魔の攻撃の方法をここに見ます。それは、「嘲り」、「脅し」、「落胆」です。まず悪魔は、神のために働くことをばからしいことのように「嘲り」ます。それでも、神さまのために働いていると、「脅し」ます。悪魔の「脅し」に、耳を傾けてはいけません。警戒しつつ神に祈り求めることが大事です。どうやって警戒し、どうやって身を守ったらいいか?それは、エペソ6章にあるように「神の武具」を身に着けることです。特に、「信仰の大盾」をしっかりともって、こころないことばや思いの矢から、自分の心を守ることが大事です。その次の攻撃は、「落胆」です。「無理だ…」と思わせます。(10節参照)しかし、聖書は言います。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」(8節)

ネヘミヤ 2章

「あるとき、私は夜中に起きた。ほかに数人の者もいっしょにいた。しかし、私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った獣のほかには、一頭の獣も連れて行かなかった。」(12節)

  神様からの思いが与えられたからと言って、何も考えずに行動すればいいというわけではないことがネヘミヤの行動から分かります。彼の行動はまず、祈りから始まります。そして、人々にその計画を明らかにする前に、自分でまず下調べをしています。彼は「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。」(20節)と言い、「私の神が、私の心を動かして」と言います。しかし、彼は自分でやるべきことを、計画的に行っていました。信仰に生きることは理性を捨てることではありません。祈ることと考えることは相反することではありません。「あなたが私を造られた目的を行うために、なすべきことをなす力と知恵をお与え下さい。」

ネヘミヤ 1章

「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って」(4節)

 ネヘミヤは「王の献酌官」(11節)でした。彼はそのままで、彼の生活は保障されていたようなものでした。しかし、人生というのは、自分の生活が保障されていればいいというものでもないのではないでしょうか。神様は私たち一人一人に目的をもって造られました、ですから、私たちは自分が造られた目的に生きるまでは、どんなに保障されていても満足することはありません。聖書は言います。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:13)神様は私たちの内側に働かれて、ネヘミヤがそうであったように、私たちがいてもたってもいられなくされます。私たちが心に留めるべきことは、ネヘミヤが数日の間、祈っていたということです。祈りを通してのみ、私たちは神の目的に生きることができるからです。

エズラ 10章

「立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」(4節)

  今日の箇所から私たちは、エズラがリーダーシップをとることができた理由の一つは、彼を励まし、彼を支える協力者たちがいたからだということが分かります。どんな組織や団体でも、リーダーを励まし、協力者となることができる人々が必要とされています。特に今、神様のために立ち上がった献身者たちに対する、励ましと協力の姿勢が必要とされています。1節には、こんなことが書いてあります。

「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。」

一緒に泣いて、一緒に祈ることを通して、開かれる世界があることを心に留めたいと思います。

「主よ、日本のすべての献身者を覚えて下さい。」

エズラ 9章

「しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」(2節)

 指導的な立場に立つ人は、高い道徳が要求されます。人を教える人も、高い道徳が要求されます。このエズラ書では混血の問題が扱われていますが、新約聖書の光に照らすならば、こう言い換えることができると思います。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。」(ガラテヤ5:16,17)

自分の欲望に生きる生き方と、聖霊に導かれる生き方は共存することができないということだと思います。もし、指導的な立場の人がいつも自分の利益しか考えていなければ、その共同体は悲劇です。指導的な立場にある人は、特に、聖霊の導きを求めて生きる姿勢が求められます。
「指導的な立場にある人々を批判的に見るのではなく、祈り、支援していくことができますように。聖霊様、助けてください。」

エズラ 8章

「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。」(21節)

  エズラたちの時代、盗賊の問題もありましたので、旅行をするというのは命がけでもありました。特に、22節にあるように、ペルシャの軍隊の援護を仰がないということになると、彼らにとってはとても大きな決心が必要だったことは確かです。彼らは不安になるよりも、断食して、道中の無事を祈り求めました。今、私たちはエズラの時代のような危険はありませんが、道中の無事を祈り求めることは大切なことだと思います。

「加害者にも、被害者になることもなく、すべての事故、トラブルからお守りください。」

と祈りつつ、一日を始めようではないでしょうか。

エズラ 7章

「私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」(27,28節)

神様は、アルタシャスタ王をはじめ、ペルシャの有力な人たちが、好意をエズラに与えるようにと働きかけられました。神様はどんな人の心にも働きかけ、主に栄光が帰されるために、主の民に好意が与えられるように導かれるお方でもあります。人の感情というのは、そもそも非論理的なものです。好意と呼ばれるものも、とても主観的なものです。しかし、そのような思いを、神様は起こさせることができるお方であるということを心に留めて祈り続けることは大事だと思います。
「主よ、好意を受けられますように。」