詩篇 43篇

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(5節)

 現代社会は私たちを様々なプレッシャーの下に起きます。私たちは経済的にもがき、人間関係にもがき、仕事にもがいています。そして、未来を不安に感じています。このようなプレッシャーをうまく処理できないと、私たちは不安と憂鬱の中に落ちてしまいます。このような状況から脱出する道が見えないとき、私たちの絶望感は大きくなります。ダビデは、そのような絶望感の中で、唯一の解決策を思い起こします。

「神を待ち望め。」

私たちは問題の解決を、自分自身や、他者に求めても、見つけることはできません。私たちはただ、神の中に希望を見いだすことができます。問題ではなく、神に自分の思いを向ける必要があります。神はあなたを愛し、あなたの人生の周りの状況を支配していることを思いだす必要があります。

詩篇 42篇

「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(2節)

私たちの心が求めているのは、生ける神様です。生ける神様との関係によってでしか満たされない渇きが、すべての人の内にあります。ですから詩人は歌いました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(1節)

詩人が伝えたいのは、新鮮な水でなければ満足できないということです。昔の体験、誰かの体験で満足することはできません。私たちは今、自分自身で神様との時間をもつ必要があります。イエス・キリストは過去の偉人というだけではなく、今、生きておられ、私たちは今、御前に出て行くことができます。イエス様は言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4:14)

詩篇 41篇

「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」(1節)

 社会的弱者に心を配ることは意味があることというのが聖書が教えていることです。スポルジョンという牧師は、

「捧げることによって彼らの富が失われると恐れる事は、なんと愚かなことか」

と言いました。イエス様はたとえ話の中で、神の審判の日のことを語っています。その日、王は言われます。

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:35,36,40)

神はすべてをご存じです。弱い立場にいる人たちに心を配ることができますように。

詩篇 40篇

「わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」(5節)

前半部分をLBではこう訳しています。

「ああ神様。何度も何度も大きな奇蹟を見せてくださったあなたは、いつも私たちのことを心に留めてくださっています。」

神が私のことを心に留めてくださっているという事実は、驚くことです。139篇では、さらにこう記されています。

「主よ。あなたが私をかた時も忘れずにいてくださる事実は、かけがえのない支えです。あなたは一日に、数えきれないほど何度も、私のことを思い起こしてくださるのです。」(17,18節LB)

神はすべてを創造し、すべてを治められるお方ですが、私たち一人一人のことを心に留め、気にかけてくださっているお方です。私たちの髪の毛の数さえ知っているとイエス様は言われます。

詩篇 39篇

「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」(4節)

 身体的に問題がないと、死を意識する人は少ないと思います。しかし、人は死亡率100%であり、その時は必ずやってきます。人間のはかなさを意識しないがゆえに、「人生の意味」という重要な問いをせず、人生を無駄に生きてしまうことがあると思います。人生時計があるならば、自分は今、何時に生きているのかを意識することは、大事なことだと思います。詩人が祈るように、人間のはかなさを認識することは大切なことだと思います。賢く時間を用いて、神に頼り生きていくことを学ぶことができるからです。しかし、キリストが復活されたことを知っている私たちは、はかなさだけではなく、永遠の世界があることも覚える必要があります。神の御国は絶えることはないからです。主はよみがえられた!

本日は、イースター〈復活祭)です。

教会で、主の復活を共にお祝いしませんか?

詩篇 38篇

「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」(15節)

問題の最中で、詩人はただ祈って神を待ち望むことを選びました。

「いつまで私は危険な崖っぷちに立ち尽くすのでしょう。」(17節LB)

崖っぷちに立ち尽くしながらも、詩人は、ただ主を待ち望むことを選びました。時として私たちができる最高の行動は、ただ主を待ち望み、祈ることです。いろいろと考えるよりも、主張したりするよりも、ただ黙って祈りに専心することが善い時があります。詩人はそのことを体験したからこそ、この詩が詩篇として私たちのために記録されたのだと思います。アルファ・コースのニッキー先生はこんなことを言っています。

「祈りはキリスト教の中心にあります・・・次のような格言があります。悪魔は、私たちの言葉をあざ笑い、私たちの労苦をばかにする。しかし、私たちが祈るとき、悪魔は震えおののくのだ。」

詩篇 37篇

「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。」(1節)

 「悪者をうらやんではいけません。」(LB)

と聖書は言います。まじめに生きることがばからしく思えてしまうときがあることは、古今東西、変わりません。

「怒るのをやめ、憤りを捨てなさい。くよくよ思い悩んではいけません。自分が傷つくだけです。悪者は滅ぼされますが、神様に信頼する者には祝福が降り注ぐからです。」(8,9節LB)

私たちは、この事実を聖書から聞く必要があります。神様を無視して生きていくことは、滅びへの道を歩んでいるということに、気づかされる必要があります。

「不正な手段でかせぎまくるより、わずかな持ち物に甘んじて、神様を敬って過ごすほうがましです。」(16節LB)

正しく生きようとする方が、幸いな人生であることを、私たちは聞く必要があります。

「神様は毎日、神様を敬う人の善行をご覧になっていて、永遠のほうびをお与えになるのです。」(18節LB)

詩篇 36篇

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(9節)

  私たちはどこに自分のいのちの泉を見出そうとしているでしょうか?私たちはどこに光を見出そうとしているでしょうか?イエス・キリストは言いました。

「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)

イエス・キリストが与えてくださる救いを受け取る時、私たちの内には聖霊なる神様が住んでくださいます。私たちが聖霊様を意識して、日々、聖霊様に満たされることを求めるならば、私たちはいのちの泉を体験することができます。いかがでしょうか?他の何か、他の誰かを求めてしまっているがゆえに、渇いているということはないでしょうか?いのちの泉は、聖霊様にあります。

詩篇 35篇

「私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。」(27節)

 神様は、ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主です。繁栄することが悪いことではなく、繁栄をどう用いるかが問題です。繁栄を目的に生きていく時に、人生は崩れていきます。しかし、過度に繁栄を否定するべきではありません。神様はご自分のしもべが繁栄することを願っておられるからです。「しもべ」は、「仕える者」のことです。「仕える心」をもつ人が繁栄するならば、その繁栄は、さらに「仕える」ために有効に用いられることだと思います。ですから大事なのことは「仕える」ことと言えると思います。イエス様はおっしゃられました。

「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)

神様は仕える心を持つ人を捜しておられます。

詩篇 34篇

「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(8節)

英語の訳では、

「味わい、見つめよう、主が善い(グッド)ということを」

と訳しています。神様を味わうという表現は面白い表現です。まさに、神様は観念的な世界の話ではなく、体験的な世界と言うことだと思います。哲学的に神学を勉強するだけではなく、実際に神様を味わうことがなければ、本当の意味で神様を知ることができないということだと思います。つまり、膝を屈めて祈ることを通して、神様ご自身を味わう必要があるということです。礼拝者として神様に共に礼拝を捧げることを通して、神様のすばらしさを見る必要があるということです。味わうためには、口を開ける必要があります。見るためには、目を開ける必要があります。神様が善いお方、素晴らしいお方だということを知りたいのであれば、信仰によって神を味わう必要があります。