詩篇 77篇

「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」(11、12節)

信仰生活が冷たいものになってしまうことがあります。どんな素晴らしい奇跡も、慣れてしまうことがあります。神様との生き生きとした関係を回復するためには、まず、第一に、聖書の神は、生ける神であり、今も、奇跡を行われる「奇蹟の神」であるということを思い起こす必要があります。第二番目に、神がしてくださったことを、思い出すだけでなく、そのことを昼も夜も思い巡らし(黙想し)、口ずさむ必要があります。そして第三番目は、神様の御業を心を込めて歌う必要があります。「静かに考えよう」と訳された言葉は、「歌います」と訳される言葉です。神様の御業を歌うことが、私たちの信仰生活に命を与えることは、教会の歴史を見ても明らかです。賛美の歌が、神の御業を解き放ちます。

詩篇 76篇

「神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。」(9節)

やがて、イエス・キリストは再臨し、神の救いは完成します。しかし、それまで神様は立ち上がらないという意味ではありません。イエス・キリストが十字架にかかり、復活されたという現実は、神がすでに立ち上がられたことを意味します。神の救いの業は始まっています。そして、キリストを信じる者たちは、聖霊の力を受けて一緒に立ち上がるように召されています。神の救いがこの世界にもたらされていくように、神の国の働きに参与するようにキリストの教会は召されているのです。ですから、マルコの福音書は、このようにまとめられています。

「弟子たちは命じられたとおりに出て行き、あらゆる所でこの福音を宣べ伝えました。主が共に働いてくださったので、数々の奇跡が起こり、弟子たちの教えの確かさが証明されました。」(マルコ16:20LB)

詩篇 75篇

「私たちはあなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は近くにあり、人々はあなたの奇しいわざを語り告げます。」(1節)

ヒルティは、「幸福の最初の条件は感謝である」と言います。感謝することを知らないで、幸せな人はいないと言います。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「神様。感謝のことばもありません!この素晴らしい奇蹟の数数は、やっぱり私たちをおこころにかけてくださっていた証拠なのですね。」

神様は私たち一人一人をこころにかけてくださっています。自分という存在そのものが「奇蹟」と言えると思います。イエス・キリストを信じることができることも、奇蹟です。アインシュタインはこう言いました。「人生には二種類ある。一つは奇跡はないと信じる人生、もう一つは、すべてのことが奇跡だと信じる人生だ。」日常の人生そのものが奇跡であると悟るならば、神様がどれほど、自分をこころにかけておられるかが分かるのではないでしょうか。

詩篇 74篇

「確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。」(12節)

イスラエルの人にとって神は昔から王でした。神はモーセを遣わし、エジプトからご自身の民を解放し、約束の地へと導きました。それは、イスラエルを通してすべての人が神の救いのわざを体験するためでした。しかし、イスラエルの人々は、神の民として救いのわざを行なうという使命を見失ってしまいました。それでも、神のみことばは変わることはありませんでした。神の御子、イエス・キリストの十字架に掲げられた罪状は、「ユダヤ人の王」でした。イエス・キリストは永遠の王として、十字架にかかられました。死の力を打ち破られ、よみがえられたイエス様は、今、地上のただ中で、救いのわざを行なわれています。キリストの教会は、神の民として、救いのわざを行なうために存在しています。私たちは宣言します。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」

詩篇 73篇

「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」(1節)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語のグッドにあたる「良い」(トーヴ)という言葉です。詩人が語る土台的真理は、「神は良いお方」(God is good.)です。私たちの人生には、理解できないことがたくさんあります。この世界が崩れ落ちていくように見えても、混乱し、いっぱいいっぱいになってしまったとしても、この土台的真理‐「神は良いお方」‐を心に留める必要があります。しかし、苦しみの中で、私たちはまったく逆に考えてしまいます。「もし、神様が力あるお方ならば、どうして、こんなことが私に起るのか?」と。詩人も同じような悩みを体験しながら、神の臨在の中で目が開かれます。

「やがて私の体は衰え、気分も沈みがちになっていくことでしょう。しかし神様は、いつまでもお変わりになりません。心の支えとなってくださいます。」(26節LB)

神様が、万事を益としてくださることをいつも覚えることができますように。

詩篇 72篇

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」(11節)

 すべての王がひれ伏し、仕えると預言された王こそ、メシヤ、キリストです。聖書は言います。

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(ピリピ2:10,11新共同訳)

ですから、この箇所に出てくる「彼」こそ、イエス様のことです。

「彼は、身寄りのない者や貧しい者を援護します。弱っている者や困っている者を見ると、いても立ってもいられず、助け上げるのです。人の命はかけがえのないものだと感じる彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできないのです。」(12-14節LB)

まさに、福音書に出てくるイエス様の姿がここにあります。イエス・キリストこそ旧約が預言してきた王、メシヤ、キリストです。

詩篇 71篇

「神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。」(16節)

 「神なる主」と訳された言葉は「主なるヤハウェ」。神の名前が用いられています。この節の全体を直訳しますと、

「主なるヤハウェの力の中に入っていき、あなたの義を覚える。あなたのだけ。」

となります。詩人は、神の偉大な御業を覚えて、ただ、神の義のゆえに、祈りの中に入って行きました。私たちが受け入れられるのはイエス・キリストの中にある神の義だけです。ですから、イエス・キリストだけを見上げなければ、祈りの中に入ることは困難です。また、神の力ある御業を覚えることが、私たちを祈りの中に導きます。神の力ある御業を語ることも大切です。

「何度、神様が、危ない目から助けてくださったか、数えきれないくらいです。会う人ごとに、神様の恵み深さと、日々とぎれることのない思いやりとを告げましょう。」(15節LB)

詩篇 70篇

「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」(4節)

 「神を慕い求める」という姿勢は、そもそも聖霊なる神様がその人の内におられる証拠でもあります。使徒パウロもこう言っています。

「それを自分のものにしようとして追い求めている。それは、すでに私がキリスト・イエスにしっかり捕まえられているから出来るのである」(ピリピ3:12現代訳)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、クリスチャンというのは、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神様ご自身が願っていることです。

「あなたの救いを喜ぶ者には、『なんとすばらしい神様でしょう!』と叫ばせてください。」(LB)

神様に対する飢え乾きがあるならば、「なんと素晴らしい神様でしょう!」と叫ぶ日は必ず来ます。

詩篇 68篇

「神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。」(34節)

 「神の力を認めよ」という言葉をLBは「力の源は神様です。」と訳しています。「神の力について、すべての人に語れ」(NLT)という訳もあれば、「神の力を宣言せよ」(NIV)という訳もあります。聖書の神が力ある神であるということを認める必要があります。パウロはこのように言いました。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

パウロは、イエス・キリストを力の源と認めることができれば、どんなことでもできると、神の力を宣言したのです。私たちは神の力をもっと語る必要があると思います。神は信じる者を滅びから救う力があります。病気をいやす力があります。祝福を与える力があります。聖霊で満たす力があります。

「宮でぬかずく時、口で言い表せないほどの厳粛さに打たれます。イスラエルの神様は、ご自分の国民を強化し、力づけてくださいます。神様をほめたたえましょう」(35節LB)

詩篇 67篇

「国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。」(4節)

LBではこう訳しています。

「また国々は、神様が王となってくださり、公平に裁いてくださると知ったら、喜びのあまり歌いだすに決まっています。」

イスラエルの人々の希望、それは、神ご自身が王となって治めてくださることです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、神様ご自身が王となられたことを伝えます。天と地は、イエス・キリストの中で交わり、神の支配は、キリストを信じる者たちの間にすでにもたらされました。完全な神の支配は、この世の終わりにもたらされます。しかし今、神の民が共に集り、喜び歌う只中に、神の支配は始まっています。神の国に生きているならば、

「喜びのあまり歌いだすに決まっています。」

今日は主の日。心からの賛美を王なる神に捧げましょう!