詩篇 115篇

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(1節)

ある日、妻が通っていた神学校にドイツから大きなパイプオルガンが運ばれてきました。ドイツで一度組み立てた後、解体して二カ月かけてまたチャペルで組み立てるという気の遠くなるような作業の果てに素晴らしいパイプオルガンが完成しました。その後、パイプオルガンのはじめての演奏会がおこなわれました。次々に迫力のある演奏が披露され、最後に外国人演奏家が音を奏で始めました。決して派手な演奏ではありませんでしたが、胸を打つ、心に迫る演奏にチャペルは割れんばかりの拍手がわきおこりました。その時、彼は人差し指を口に当てました。そしてその手でチャペル前方に掲げられた十字架を指し示したのです。すべての栄光を主にという彼の姿はそこにいた人たちの心に深く刻まれました。Soli Deo Gloria!

詩篇 114篇

「海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。」(3節)

 ここだけ読むと、「?」という印象を持つかもしれません。別の訳では『紅海は神の杖によって二つに分かれ、ヨルダン川の水も二つに分かれた。』とあります。まさに、これは旧約聖書に出てくる、イスラエル民族における、二つの大きな出来事の記録であることがわかります。どちらも『あり得ない状況』から神様が超自然的方法を用いて救い出してくださった出来事です。神様に不可能なことはありません。しかし、何度も神様の奇跡を体験していたイスラエルの民は、事あるごとにそのことを思い起こし、神様がどのようなお方であり、どこから自分たちを導き救い出してくださったかを繰り返し思い起こす必要がありました。このことによって彼らは神様の視点にいつも自分の視点を修正していたのです。わたしたちにとっても、この習慣は大切だと思います。神様がなされた御業を思い起こそうではないでしょうか。

詩篇 113篇

「日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。」(3節)

『日の昇るところから沈む所まで』という表現は詩篇の中に頻繁に登場します。この言葉は、すべての場所、世界中でという意味を持っている言葉です。別に、太陽が昇って落ちるという科学的な説明をしているわけではありません。比喩です。現代訳では『世界中どこででも、主をほめたたえよう。』と訳しています。どんな場所でも、どのような状況でも主をほめたたえよう、とこの詩人は呼びかけているのです。

わたしたちはいつの日か、世界中のキリストを信じる人々とともに神様を賛美する時が来ることを信じています。ひとりで賛美することも大切ですが、多くの兄弟姉妹と一緒にひとところに集まり、声をあわせて賛美するときに、わたしたちは天国の前味を体験することができます。共に集まり、主の御名をほめたたえることは、聖書が命じていることです。

詩篇 112篇

「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」(7節)

 多くの場合私たちの心は、置かれている状況によって簡単に揺らいでしまいます。9回嬉しいことがあっても、たった一度良くない出来事が起こると、9回の嬉しいことはあっという間に記憶から消滅してしまいます。残るのは不安や恐れだけ。そんな経験をしたことがあると思います。しかし、詩人は告白します。

「彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、びくつきもしません。神様から見放されるわけがないと、信じきっているからです。」(LB)

私たちはさらに確実な聖書のみことばの約束があります。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)』

私たちがみことばに信頼して歩んでいく時に、プラスに見えることもマイナスに見えることも神様は用いて最善に導かれます。

詩篇 111篇

「主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人々はみな良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。」(10節)

 『主を恐れることは知恵の初め』。

この言葉はとても重要です。主を恐れるとは、全能の神を、聖書の神を神として認める、畏敬の念を持つ、ということです。残念なことに、信仰がなく、学問や歴史書としてしか聖書を学ぼうとせず、真理から遠ざかっていく「神学者」がたくさんいます。信仰がなければ聖書の奥深い真理を知ることは決してできません。私たちには理解できない神の領域があるということを知って初めて、真理を知るというスタートラインに立つことができるのではないでしょうか。へりくだり、神に聞く耳を持つことによって初めて、神は聖書の真理を私たちに語ってくださるのではないでしょうか。聖書は信仰をもって読むべきものです。興味深いことに初代教会の始まりがこう記されています。

「だれもが、心から神様を恐れ敬うようになり」(使徒2:43LB)

詩篇 110篇

「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」(1節)

 今日の箇所は「メシヤ詩篇」として有名です。この詩篇は新約聖書に最も多く引用されています。マルコの福音書の12章ではイエス様がこの箇所を引用して、メシヤ(キリスト)は、「神の子」であるというキリストの神性に言及します。イエス・キリストは自分が「神の子」などと言ってはいないだとか、聖書はイエスの神性を教えていないとか言う人がいますが、この箇所は明らかに、イエス・キリストの神性が語られています。イエス・キリストは真の神であり、真の人でした。ですから、私たちすべての人の罪の身代わりに十字架で死ぬことができました。そして、復活され、天に昇られた今、神の栄光の御座に着座されました。イエスは旧約聖書で預言された通り全地の王となられました。キリストを信じる者は救われます。キリストは再び来られます。

詩篇 109篇

「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。」(28節)

 どんなに呪われても、神の民は心配する必要はありません。神はそれを上回る祝福をなされるからです。LBでは、

「彼らにいくらのろわれても平気です。神様の祝福さえあれば、何も気になりません。」

と訳しています。私たちが必要としているのは神様の祝福です。詩篇133篇では、神様の祝福が兄弟姉妹たちが一つとなって共に集まるその所に命じられると約束されています。ペンテコステの日も、信徒たちが一つとなって集っている所に聖霊が臨まれました。まさに、週のはじめの日(日曜日)に、イエス・キリストの御名によって一つとなって神を礼拝することは、私たちが考える以上に意味があることが分かります。生きていく中で、のろわれているのではと思うほどのことがあります。しかし、共に神に礼拝を捧げる中で、神ご自身が祝福してくださいます。

詩篇 108篇

「神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。」(1節)

詩人は、「私の心はゆるぎません。」と言いました。私たちは、この「揺るがない心」を必要としていると思います。NLT訳では、

「わたしの心はあなたの中で確信している」

と訳しています。「ゆるがない心」は、神様に対する確信から来ると言ってもいいのかもしれません。メッセージ訳では、

「準備ができている」

と訳しています。神に対して「ゆるがない心」があるならば、神に賛美の歌を歌う準備はできていると言えると思います。

明日は主の日です。この主にある「ゆるがない心」をもって、神を礼拝しようではないでしょうか。目の前の状況に左右されるのではなく、「私の心はゆるぎません。」と、神を礼拝しようではないでしょうか。

詩篇 107篇

「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」(8,9節)

驚くことに私たちの身体は、どんなに食べても、しばらくすると食物を欲するようになります。ですから、肉の欲求を満足させることだけを考えるならば、いつまでたっても満足することはありません。一時的に満たされたと感じても、しばらくすると、もっと、もっととなります。人は肉体的な飢え渇きだけでなく、霊的な飢え渇きがあります。霊的な必要を、肉体的な体験で満足させようとするときに、問題が起こります。うまくいかないからです。イエス様は言われました。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

イエス・キリストが、私たちが欲しているすべての答えです。

詩篇 106篇

「それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」(44節)

 神様はあわれみ深い神です。イスラエルの人々がどんなに迷い出て、自ら滅びを招いていても、それでもなお、彼らの叫びを聞いてくださったと言います。神の愛は、私たちの理解を超えています。「イエス様!」と叫ぶ、その祈りをないがしろにされることはありません。

「主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。」(45節)

とあります。イエス・キリストの十字架は、キリストを信じる者は救われるという神との契約(約束)でした。神は私たちの祈りを、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに聞いてくださると約束しています。ですから、イエス・キリストを見上げて、祈ろうではないでしょうか!神様は私たちの叫びを聞いてくださいます。