イザヤ 1章

「善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」(17節)

社会正義は、神の国の現われであり、聖書が私たちに求めていることの一つです。自分は悪を行いながら、自分の思い通りに神様が動いてくれないという傲慢な姿勢は、聖書が厳しく非難しています。神様は私たちを愛してくださる恵み深いお方ですが、同時に、全世界を正義をもって治められる義なる神です。また、社会的弱者に対してあわれみの心をもつことも大切に語っています。もちろん、短絡的に何でも援助すればいいということではないことは、社会学的にも認知されていますが、慈しみの心をもち、できることを心がけていくことは、神の国に生きることであり、神様が私たちに求められていることでもあります。
「主よ、どうぞ私たちにあわれみの心、知恵と力をお与えください。」

雅歌 8章

「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(7節)

雅歌は、今から約2500年以上前に生きていたソロモン王が記したものと言われますが、興味深いことにこのころ既に「愛はお金で買えない」ことを知っていたことが分かります。しかも、ソロモン自身は栄華を極め、欲しいものは何でも手に入れることのできた人物でした。だからこそこのソロモンの言葉は説得力があります。現代に生きる私たちも愛を求めています。ギブアンドテイクの関係ではなく、そのままの自分を受け入れて欲しいという気持ちは昔も今も変わりません。しかし、『神は愛です』とあるように、そのような愛は神にのみ期待できるものです。気仙沼の嶺岸先生は津波ですべてを押し流されてしまいました。しかし神の愛を消すことはできなかったと証されています。

雅歌 7章

「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」(5節)

 7章の最初から、様々な形容詞を用いて相手を称賛する言葉が続いているため、少々読み進める気力が失われてしまった方もいるかもしれません。また、その形容に使われている言葉がわれわれには馴染みの少ない言葉(例えばヘシュボンの池、カルメル山など)であるため想像がつかない、という方もいらっしゃるでしょう。『あなたの頭は富士山のようにそびえ』などと言う人はいないと思いますが、とにかくこの箇所で感じるのは、自分の持てるすべての言葉を用いて相手をほめることは大切だということです。相手を傷つけたり、不快にさせたり、批判したり、打撃を与える語彙を増やしていくよりも、相手を認め、建て上げる言葉を蓄えたいものです。

雅歌 6章

「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」(1節)

この節は、5章の『愛する方の紹介』に対する更なる応答の言葉です。私たちに適応するとすれば、イエス様の素晴らしさを私たちが余すところなく伝えた時、それを聞いた人々は、『私たちもあなたと一緒に捜しましょう』と応答する、ということであると思います。これは素晴らしい真理ではないでしょうか。
私たち自身がイエス様の中に生き、感じ、体験するならば、その私たちの姿をみて周りの人々に、「イエス様を知りたい」、という思いが生まれるのではないかと思うのです。味わってみなければ、そのおいしさを真に表現することはできません。まず、私たち自身がイエス様を体験していきましょう。

雅歌 4章

「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニルとヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りてきなさい。」(8節)

 パウロは、新約聖書において、教会とキリストとの関係を花婿と花嫁として描いています。その観点からこの箇所を読むととてもわかりやすく感じます。それは、イエス様が私たちに対してこのように愛を持って呼びかけておられる、ということです。
レバノンは、旧約の時代において異教の民が住む場所(フェニキア人の国)であり、バアル信仰を北イスラエル王国に持ち込んだ悪名高き王妃イゼベルは、フェニキアからイスラエルに嫁いできた人物でもありました。イエス様は私たちをそのような状態から救い出すためにこの地にこられ、『一緒に来なさい。』と、私たちの手をとって脱出させてくださる方です。

雅歌 3章

「没薬と乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上ってくるひとはだれ。」(6節)

 没薬と乳香、この組み合わせを読んで思い浮かべる聖書の場面がないでしょうか。新約聖書のキリスト誕生の時、東方から来た博士たちは救い主への贈り物として黄金、乳香、没薬を携えてきました。没薬とは、実は「ミイラ」の語源となった言葉でもあります。ご存じのように、それは、没薬が死者の埋葬の時に使用されたからです。ですから、そのところからキリストの地上においての使命を、東方の博士たちが理解していた、と考える人もいます。
さて、雅歌のこの箇所において、7節以下は結婚の喜びが書かれています。しかしこの喜びの時に没薬が用いられていることは、結婚が「自分に死ぬ」ことであることを表現していると言えるのかもしれません。今日は主の日。私たちの罪のために死に、葬られ、復活されたイエス様を礼拝しましょう。

雅歌 2章

「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(2節)

 谷間のゆりのように、花嫁はいばらの中のゆりのようだと言います。これがイエス様が教会を見る目です。私たちは罪に満ちた世界に存在しています。しかし神様は、私たちにある美しさに目を向けられているというのです。時には、自分たちも汚染されてしまっているように感じる時があります。でも、イエス様は私たちを見て、私たちの美しさを見るというのです。私たちをいばらとは見ないのです。なぜならば、イエス様が私たちのためにすでに十字架の上で死んでくださったからです。イエス様の十字架は自分のためだったと信じ受け入れるならば、私たちはキリストの血潮によって美しくされるのです。たとえ、私たちの汚れが緋のように赤くても、雪のように白くする力があるのです。
「イエス様、あなたの十字架の御業を感謝します。あなたが私たちを特別に見てくださることを感謝します。」

 

雅歌 1章

「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。」(3節)

 雅歌は「歌の中の歌」とも呼ばれますが、夫婦の愛の詩です。聖書は結婚という文脈の中において、夫婦がお互い求め合うことを大切にしています。しかし、それはまた同時に、エペソ5章にあるようにキリストと教会との関係として解釈することも大切です。
今日の箇所を新共同訳ではこう訳しています。

「あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。」

クリスチャンにとって、イエス・キリストの名前はかぐわしい名前です。「イエス様」とイエス様の名前を口にするだけで、幸せな気持ちになります。イエス・キリストとの人格的な関係があるならば、「イエス様」という名前は特別な名前だからです。

「愛するイエス様、あなたの名前を呼ぶことができる恵みを感謝します。」

コロサイ 4章

「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」(3,4節)

 奥義とは、2:2にこうあります。「キリストご自身にほかならないからです。」(LB)キリスト教とは宗教ではなく、キリストとの関係です。問題は、このキリストとの関係という奥義をはっきりと語るということです。なぜならば、いつの時代も、キリストとの関係を築き上げることを妨げようとする攻撃が存在するからです。ある牧師はこう言っています。「世の中は買い手志向だが、キリスト教会だけは売り手志向。世が求めているものは何かを知るだけでなく、福音がそれを満たすことができるという姿勢が必要。」キリストが、私たちのすべての必要に唯一答えることができるという信仰が大事です。

コロサイ 3章

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(12,13節)

 聖書は、この世で私たちが身につけるものがあると言います。もちろん、神様はありのままの私たちを受け入れてくださったのですが、だからと言って開き直ってしまうのは、聖書が教えている生き方ではありません。具体的に私たちが身につける必要があるのは、不満があっても、互いに忍び合い、赦しあうということです。イエス様がどんなに忍耐され、どんなに赦されておられるかを考える時、私たちもまた、互いに忍耐して、赦し合うという姿勢を身につけていくことが、神様が望んでおられることです。「主よ、私たちにあなたの心を与えてください。」