黙示録 19章

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」(7節)

小羊はイエス様、花嫁は教会を指しています。私たちは、聖書が教会を花嫁と呼んでいることを心に留める必要があると思います。教会は人の集まりですから、完全ではありません。しかし、聖書にはこう書いてあります。

「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」(エペソ5:29)

イエス様は、そんな欠けのあるキリスト教会を終わりの日の婚姻の日まで養い、育てると約束しています。婚姻の時が意味していることは、自分がもっている所有物、運命の共有と言うことです。キリストを信じる者たちには、教会には、栄光に満ちたキリストと共同相続人になるという未来があります。

「主よ、あなたが教会を養い育ててくださることを感謝します。」

黙示録 18章

「それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」(4節)

神が「離れなさい」と言ったこの女は、終わりの時代に登場する商業都市、バビロンと言われていますが、7節を見ると三つの問題があったことが分かります。

一.自分に栄光を帰した。

二.自分を喜ばすことだけに生きた。

三.自分の力を過信した。

今すでに、「ミーイズム」と呼ばれる自分中心の価値観が強い社会に生きています。しかしこのような価値観から離れる必要があります。聖書にこんなたとえがあります。

「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45,46)

イエス・キリストの永遠の価値を知るならば、この世の価値観は色あせていきます。

黙示録 17章

「この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」(13,14節)

イエス・キリストと戦う愚かな人がいるのでしょうか?しかし、今日の箇所を見ると、大患難時代に、時の指導者が戦いを挑むと言います。しかし、世界中の力をどんなに結集しても、神の小羊に勝つことはできません。

「小羊は彼らに打ち勝ちます。」

聖書は言います。

「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。」(詩篇2:4)

たとえ、今、この世が勝利しているように見えたとしても、私たちは忘れるべきではありません。最終的な勝利は神の小羊にあることを。そもそも、キリストが十字架の上で死なれたことが、勝利であったことを忘れるべきではありません。

黙示録 16章

「こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」(16節)

「ハルマゲドン」という言葉はよく曲解されます。「ハル」は丘という意味で、「マゲドン」と表記された言葉は、イスラエルにある「メギド」という言葉です。ですから、「メギドの丘」という地名が、「ハルマゲドン」の意味です。その場所に悪魔はやがて世界の軍勢を集めて神に対抗しようとするのです。しかし、一瞬のうちに決着がつきます。神は絶対者、対立を絶つ存在、誰も神に立ち向かうことなどできません。私たち人間が謙遜に知らなければならないことがあります。それは、私たち人間は神になることは出来ないし、神に対抗できるものにもなれないということです。これはまた、私たちに解放をもたらします。私たちの苛立ちの原因は、自分の思い通りに物事が進まない事だと思います。神ではないのですから、思い通りに進まなくて当前です。神を信頼しましょう!

黙示録 15章

「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。」(3節)

モーセは旧約聖書を代表する人です。小羊であるキリストは、新約聖書を代表する人となられた神の御子です。ですからこの「モーセの歌と小羊の歌」は、いつの時代でも、私たちが歌うように与えられた歌と言えます。この歌は、神がどのようなお方か、その告白です。その一つは、「万物の支配者である神」、「全能者である神」(新共同訳)です。私たちは、全能の神が共におられ、私たちを助けてくださり、見守ってくださるという歌を聞き、歌い続けることが必要です。黙示録は、そもそも、迫害下にあった教会に送られた書簡です。どんなにマイナスに見える状況の中でも、「どんなことでも神にはできる!」と歌うように語られているのだと思います。

黙示録 14章

「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」(6,7節)

聖書は、はっきりとこの世の終わりについて語っています。この時代がどこに向かっているか明確に教えています。やがて、クリスチャンたちが天に突然挙げられて、それから大患難時代がやってきます。そして、偽キリストが地上の支配権を握り、偽預言者の教え以外に語ることは許されません。もはや地上で、神のことばを語ることは許されません。その時、天から天使たちが神のことばを伝えます。神か悪魔か、最終的に人は選ばなければなりません。今日は主の日。私たちは、神を恐れ、神をあがめる方を選ぼうではありませんか!

黙示録 13章

「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」(18節)

歴史を通じ「666」は誰を指しているのか、研究され続けてきました。(リストは現在も進行中。)しかし、沢村五郎という牧師がこんなことを言っています。

「患難の中にある時、しばしばそれが永遠に続くもののように感じられるものですが、悪の力は必ず666です。」

つまり、「666」とは「制限された不完全数」であり、完全ではない、必ず終わりが来るという意味だと言います。獣は完全ではない。獣にも終わりの時が来ると言うのです。私たちが日常直面する問題も、終わりがない、完全なもののように思ってしまうことがあります。自分にはどうしようもない、圧倒されるような存在、出口が見えないような問題があると。しかし、それは、「制限された不完全なもの」です。神の時は必ず来ます。

黙示録 12章

「この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。」(2節)

ここに出て来る「女」はイスラエルの国、生まれてくる「男の子」はイエス・キリストを指していると多くの学者は考えています。実際、イスラエルの民族ほど、歴史上何度も滅ぼされそうになりながら存在し続けている民族は他にはありません。
ここで注目すべきことは、「この女」は、産みの苦しみと痛みで終わったわけではなく、5節に、「女は男の子を産んだ。」とあります。つまり、産みの苦しみの先には、「出産日」がくるということです。キリスト教会は、日曜日に礼拝をもっています。その理由は、キリストが死の力を打ち破って復活されたのが日曜日であり、キリスト教会は、今生きておられるイエス・キリストを礼拝するからです。日曜日は、復活の象徴、勝利の象徴です。悲しみが喜びに、嘆きが歌に変わる日が必ず来ます。

黙示録 11章

「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。」(19節)

「天にある神の神殿が開かれて、契約の箱が見えた」というのは、旧約聖書では考えられない内容です。これは旧約聖書では、年に一回だけ、大祭司だけがいけにえを携えてのみ見ることができた光景でした。契約の箱が意味しているのは、もちろん、神と人との契約、約束です。つまり、「神の約束は永遠に変わらない」ということを意味しています。小さなコインで、私たちはあの大きな太陽を自分の目から隠すことができます。同じように目の前の小さな問題で、神の大きな愛を見えなくすることができます。私たちは自分の目の前のコインをのけて、神の大きさを感じる必要があります。世界は預言されたように向かっています。私たちを愛し、私たちのこの人生にさえも関心をもっておられる永遠に変わらない主は生きておられます。

黙示録 10章

「七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。」(4節)

聖書には、明らかにされた真理と隠された真理があります。申命記29:29にも、こう記されています。

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」(口語訳)

まず、私たちは明らかにされた真理、たとえば、「イエス・キリストを自分の救い主として信じる人は誰でも救われる」ということは、私たちに属することとして握り締める必要があります。しかし、同時にグレー・ゾーンと呼ばれる隠された部分があることも認めて、神に属するものとして受け止めることも大事です。私たちは知らないことがあるゆえに謙遜になれます。