マタイ 18章

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(10節)

イエス様は私たちを守っている天使の存在があることを教えています。ここでは、子どもたちをどう扱うか注意するように言っています。なぜなら、

「子どもたちを守る御使いが、いつでもわたしの父の側近くにいるのです」(LB)。

もちろん天使たちは子どもたちだけでなく、キリストを信じるすべての人を守るためにも存在しています。聖書は言います。

「御使いは、救われる人々を助け、守るために遣わされた、霊の使者にすぎなのです。」(ヘブル1:14LB)

天使礼拝は禁じられてますが、神が天使たちを遣わして私たちを、特に社会的弱者、子供たちを守っていることを意識することは大事なことだと思います。

マタイ 17章

「それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」(8節)

使徒ペテロにとってこの時の出来事はあまりにも印象的だったらしく、後に手紙の中でもこう記しています。

「私たちは主イエス・キリストの力と、再び地上へ来られることについて話してきましたが、それは、うまく考え出した作り話ではありません。私はこの目で、キリスト様の輝きと栄光とを、はっきり見たのです。キリスト様が、聖なる山の上で、父なる神から誉れと栄光とを受けて輝かれた時、私はその場に居合わせました。その時、栄光にあふれる厳かな声が天から響くのを、はっきり聞いたのです。『これこそわたしの愛する子、わたしの大いなる喜び。』」(Ⅱペテロ1:16-:18)

キリストは生ける神なので、今も私たちはペテロと同じような山頂の体験をすることができます。しかしイエス様しか見えなかったように、私たちの土台は体験ではなくキリストです。

マタイ 16章

「シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(16‐18節)

ペテロは、自分の口から出た信仰告白がどんなに意味のあることかこの時理解していなかったと思います。まさに、聖霊なる神様が彼にそう言わせたのだと思います。イエス様は、この信仰告白の上に、「わたしは、わたしの教会を建てます。」とおっしゃられました。その信仰告白は「イエスは、生ける神の御子キリスト」。教会の土台は、生ける神イエス・キリストです。キリストは過去の偉人というだけでなく、未来に来られるお方というだけでなく、今、生きて働かれるお方です。

マタイ 15章

「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」(18、19節)

18節をLBではこう訳しています。

「悪いことばは悪い心から出てくるので、人を汚すのです。」

つまり、私たちが一番気をつける必要があるのは心だとイエス様は言われたのです。箴言4:23にはこう書いてあります。

「何よりも、心を見守りなさい。心は生活全体に影響を与えます。」(LB)

どんなテレビを見るか?どんなホームページを見るか?どんな音楽を聞くか?友人とどんな会話をするか?私たちは心を見守る必要があります。心が荒んでいくと、悪いことばが口から出て私たちを汚します。ですから、日々、神のみことばに浸かる必要があります。
「主よ、あなたのみことばに私を浸してください。私の心をきよめてください。」

マタイ 14章

「イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。」(29,30節)

信仰と恐れは、互いに相容れません。

信仰は恐れを消し、恐れは信仰を消します。

もし、私たちがイエス様から目を離すことがなければ、私たちの信仰が水の上を歩くような世界に生きることを助けてくれます。しかし、現実の嵐のような状況は、私たちの目をイエス様から反らさせます。その時、私たちは失望の中に沈みます。しかし、ペテロのように「主よ。助けてください。」と、私たちを唯一助けることができるお方、イエス・キリストに叫ぶならば、イエス様がその御手を伸ばし、私たちを救い出してくださいます。イエス様は言われます。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」

マタイ 13章

「だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」(29,30節)

麦か毒麦か、人が判断することはできません。私たちは、最後の審判までそのままにしておくように命じられています。すなわち、裁きは神に委ねるという姿勢が求められています。私たちは自分の善悪の基準で人を裁くことは許されていません。もし、自分の善悪で人を裁くならば、麦まで引き抜きかねません。イエス様は、「収穫の時まで放っておきなさい」と言われます。つまり、イエス様が責任をもって裁くから、放っておきなさいと言われるのです。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

マタイ 12章

「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」(20節)

能率主義、成果主義から考えると、理解に苦しむ箇所です。いたんだ葦も、くすぶる燈心も、捨てて換えたほうがいいものです。役にたたないどころか、迷惑なものです。しかし、イエス様はそんな「おちこぼれ」に希望をもたらされるお方だと言うのです。

「弱いものを踏み倒さず、どんな小さな望みの火も消さない。」(LB)

イエス様は決して見捨てないお方だと言うのです。イエス・キリストの十字架の御業が勝利をもたらしましたから、イエス・キリストを信じる者に、希望があります。

「彼の名こそ、全世界の希望となる。」(21節LB)

讃美歌「いつくしみ深き」の歌詞に「世の友、我らを捨て去る時も」とありますが、イエス様はあきらめません。希望はあります。

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

マタイ 11章

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(30節)

イエス様の「荷」とは何でしょうか。それは、父なる神のみこころを行うことでした。そして、それは「軽い」と言われました。つまり、私たちが自分を喜ばそうと生きることよりも、神を喜ばそうと生きるほうが容易いと言ったのです。自分のために生きようとする時、私たちは様々な重荷に押しつぶされそうになります。29節をリビングバイブルではこう訳しています。

「わたしはやさしく、謙遜な者ですから、負いやすいわたしのくびきを、わたしといっしょに負って、わたしの教えを受けなさい。そうすれば、あなたがたのたましいは安らかになります。」

神のために生きる時、私たちはイエス様と共にくびきを負い、イエス様の力で、成し遂げていくことができます。ですからイエス様は言われます。

「わたしのところに来なさい。」(28節)

マタイ 10章

「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(42節)

神の国の働きのために献身した働き人に、神の国の働きのために献身しているからという理由で、敬意を払うならば、その報いを受けると言います。それだけでなく、イエス様の弟子だと言うだけで水一杯提供するならば、その報いからもれることはないと言います。その人の報いのためにも、私たちは快く善意を受け留めることを学ぶ必要もあると思います。使徒パウロも、自分を支援してくれたピリピの教会にこのように言っています。

「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

神は必ず報いてくださいます。

マタイ 9章

「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」」(12,13節)

イエス様は当時罪人としてはじかれていた人たちと、あえて食事をされました。当時の宗教指導者たちにとって、誰と食事をするかは重要なことでした。なぜなら、穢れた人と共に食事をしたら、自分も穢れると考えていたからです。彼らはいつも自分が正しかったのです。しかしイエス様は、神の愛が必要な人ならだれにでも近づいていき、一緒に食事をしました。食事は、神の国の現れを意味していたからです。神の国は、憐れみ深くなることを通して現されます。自分の物差しで他者を裁き、自分がいつも正しい人は、その食卓に着こうともしません。