出エジプト 10章

「パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。『私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して罪を犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、主に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」(16,17節)

パロは悔いることはしました。しかし、悔い改めることはありませんでした。悔い改めると訳される言葉は、「考え方(思考)を変える」という意味があります。パロは、悔いることはありましたが、彼の考え方を変えようとはしませんでした。イエス様は言いました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)。

イエス様が私たちに望んでいることは単にパロのように悔いることではなく、考え方を変えることです。自分中心の考え方から、神中心の考え方に変えることです。自分の経験ではなく、神のみことばに土台した考え方です。

出エジプト 9章

「わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。」(14節)

神様がエジプトに災害を与えた理由の一つは、

「この世界にわたし以外に神がいないことを教えるためだ」(LB)

と聖書は言います。パロは言いました。

「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。」(出5:2)

パロは、この10の災害を通して、まことの神を知ります。そして、私たちもこの出エジプト記の内容を知ることによってまことの神を知らされます。箴言9:10にこういう箇所があります。

「知恵の基本は、神様を恐れ、たいせつにすることです。物事がよくわかりたかったら、まず神様を知りなさい。」(LB)

私たちは今、聖書を通してこの真理を知ることができます。
「主よ、あなたのようなお方はどこにもおられません。」

出エジプト 8章

「主はモーセに仰せられた。『パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。』」(1節)

聖書を読みこみすぎることは危険なことです。しかし、聖書の世界の背後には、この出エジプトの出来事があります。エジプトは罪の生活の型、抑圧と束縛の肉の人生を象徴していると言われます。そのため、パロ(ファラオ)はサタンの型だと考えられます。パロはモーセに妥協案を提示しました。サタンも私たちに信仰を妥協するように迫ります。私たちは妥協してはいけない本質的な信仰の部分があります。たとえば、聖書(旧新約聖書六六巻)は誤りなき神の言葉であるということは妥協できません。イエス・キリストを自分の救い主、人生の主として心の中心にお迎えすることも、妥協できません。イエス様は言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)

出エジプト 7章

「モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。」(20節)

神様がエジプトに下された10の災害は、エジプトの神々に対するものでもありました。最初の災害は、ナイル川を血に変えるというものでした。エジプトの人々にとってナイル川は、彼らに祝福をもたらす彼らが拝んでいた神でもありました。そのナイル川が血となるということは、イスラエルの神が、エジプトの神々を裁かれたという意味もあります。さらに興味深いことは、モーセは水を血に替えましたが、イエス様は水をワインに変えました。血は死の象徴で、ワインは喜びの象徴です。聖書は言います。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)

キリストは喜びによって証されています。

出エジプト 6章

「それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」」(1節)

神がなさることを理解するのには時間がかかります。ですから、ハバククという預言者に、神はこう言われました。

「わたしがしようとしていることは、今すぐには起こらない。ゆっくりと、少しずつ、しかも確実に、実行に移される。遅いように思えても、失望するな。必ず計画通りになるのだ。忍耐して待て。ただの一にも、遅れることはない。さあ、今からしっかり頭にたたき込め。〔カルデヤ人がそうするように〕、悪者は自分だけを信頼し、ついには滅びる。だが正しい人は、わたしに信頼することによって生きる。」(ハバクク2;3,4LB)

今、すぐ起こらないからと言って神が何もしないという意味ではありません。主を信頼することによって生きることを学ぶことが大切です。

出エジプト 5章

「その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」」(1,2節)

 モーセとアロンは、ファラオのところに行き、主がイスラエルの民を行かせるように言っていると告げました。しかし、彼は「主とはいったい何者か」と答えました。そして、彼はこの後、彼の質問の答えを体験します。エジプトの人々は、創造主ではなく、被造物を拝んでいました。神は、エジプト人が拝んでいた自然現象を否定する災害をもって、主とはいったい何者か」という彼の質問に答えました。神は自然を通してもご自身を現される、王の王、主の主なる、力ある神です。

今日は主の日。主を礼拝しましょう!

出エジプト 4章

「主は彼に仰せられた。『あなたの手にあるそれは何か。』彼は答えた。『杖です。』」(2節)

神は私たちの手にすでにもっているものを用いて御業をなさるお方です。

モーセの手には杖がありました。

神はその杖を用いられました。

ペテロは漁師でした。

彼の手には網がありました。

神は彼の網を用いて人間をとる漁師とされました。

パウロは学者でした。

彼の手にはペンがありました。

神は彼のペンを用いてたくさんの手紙を書き残させました。

神は私たちに

「あなたの手にあるそれは何か」

と尋ねています。

私たちの手には何があるでしょうか。

たとえそれが自分で努力して体得した技術だったとしても、それは神の賜物です。

なぜなら、努力できる環境も神が与えてくださったものだからです。

ですから、神は私たちに問われます。

「あなたの手にあるそれは何か?」

「主よ、示してください。私の手にあるものを。そして、私を用いてください。」

出エジプト 3章

「モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」」(11節)

若い時、正義感のゆえに大失敗を犯したモーセは、同胞のイスラエル人、そして、パロから逃げるようにひっそりとミデヤンの地で羊飼いの仕事をしていました。そんな彼のもとに主が来られて言いました。

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(10節)

モーセにしてみれば、

「神様、人選を間違えていませんか?私は大失敗をして、彼らから逃げて、ここにいるんですよ。」

というところでした。しかし、神様は、そんな

「私はいったい何者なのでしょう。」

と言うモーセを用いられました。

神様が用いられるのは砕かれた器です。

失敗は終わりではなく始まりです。

モーセのように今与えられていることに謙虚に仕えていきましょう。

出エジプト 2章

「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」(24節)

聖書のキーワードの一つは「契約」です。「旧約」の「約」も、「新約」の「約」も、「契約」の「約」です。神は「契約」の神です。天地万物を造られた神は、創造の冠である人間と「契約」を結ばれました。神はその「契約」に基づいて行動を起こされます。この出エジプト物語も、まさに、神とアブラハムとの「契約」に基づいているのです。同じように、神はイエス・キリストを信じる者は、一人も滅びることなく、永遠の命を持つことができるという「契約」を、イエス・キリストの十字架の死を通して与えられました。これが、新しい「契約」です。神はこの「契約」に基づき、イエス・キリストを信じるすべての人を天の御国へと導いてくださいます。

出エジプト1章

「しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。」(17節)

聖書は、

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)

と言います。イエス様もこう言われました。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

助産婦たちは、からだを殺すことができるエジプトの王ではなく、たましいもからだも滅ぼすことのできる神を恐れました。その結果、

「助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(21節)

とあります。

神への健康な恐れは、人に対する不健康な恐れを克服させてくださいます。神を正しく恐れることから健全な社会が生み出されていくと言っても過言ではないと思います。