マルコ 1章

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)
「悔い改めて福音を信じなさい」

とクリスチャンが言う時、それは大体、

「罪をやめて、クリスチャンになりなさい」

という意味です。

もちろん、神は、私たちが罪を犯し続けることを願われていません。私たちは、悪いと分かっていることを止めて、立ち返る必要があります。しかし、今日の箇所で、イエス様が言われた「悔い改めて福音を信じなさい」という意味は、他にも意味があります。

それは、まず、第一に、

イスラエルの国を崩壊させる戦争へと掻き立てていた社会的、政治的流れから、方向を転換することでした。

第二に、これは、

ヤハウェなる神への真の忠誠に立ち返ることへの呼びかけでもありました。

イエス様は、自分が握り締めていたものを、手放して、イエス様を、イエス様のメッセージを信頼することを求めました。

世界観の転換を求めたのです。

 

出エジプト 40章

「モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(35節)

「とどまり」と訳された言葉は、ヘブル語の「シェキナ」と呼ばれる、「神の栄光」「神の臨在」を現す言葉と同じ語源の言葉が用いられています。イスラエルの民の中心には、神の臨在がありました。それが、イスラエルの民を特別なものとしました。今、キリスト教会の中心には、同じように「神の臨在」、聖霊がおられます。聖霊こそ、キリスト教会を特別なものとしているものです。ですからパウロは言いました。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

今日は主の日です。共に主の宮に集い、主の臨在の民として、聖霊の民として、主に礼拝を捧げましょう。

出エジプト 39章

「イスラエル人は、すべて、主がモーセに命じられたとおりに、そのすべての奉仕を行なった。」(42節)

私たちは、どうしても自分のやり方でしたいという気持ちがあります。しかし聖書は、神が命じられているように従順して行うことの大切さを語っています。指導者に盲目的に従順するという意味ではなく、具体的に神が命じられていることは聖書の中に記されていますから、聖書のみことばに従順するということです。これは、信仰生活で大切な部分でもあります。自分のやり方を通すか、神のやり方に従順するか、それは、自分が神になるか、神が神になるか、自分が主導権を握るか、神が主導権を握るか、信仰生活の根本的な問題でもあります。神が命じられた通り、私たちは祈り、賛美し、教会に集い礼拝します。これこそ、神を神とする私たちの根本的な信仰姿勢につながるものでもあります。

出エジプト 38章

「これを用いて、彼は会見の天幕の入口の台座、青銅の祭壇と、それにつく青銅の格子、および、祭壇のすべての用具を作った。」(30節)

幕屋の中で使う器具のもとになったのは、人々が喜んで捧げたものでした。神は喜んで捧げる物を聖めて、主の栄光のために用いてくださるお方です。神ですから、自分の聖所で使うものは特別に天から降らせることも、超自然的に造ることもできたはずです。しかし、一人一人が精一杯、神のために捧げたものを用いられました。神は私たちのそのような心を求められているからだと思います。ですから、教会の一般的な必要は、教会に集う一人一人が喜んで捧げるささげ物を、神は聖めてもちいられます。「達人の手」という詩があります。オークションで安くたたき売られていた古いバイオリンを達人が奏でた時、その値は何十倍、何百倍にもなったという内容です。達人であるイエス様が私を奏でてくださるならば、素晴らしい音が出ます。

出エジプト 37章

「ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」をおおい、ケルビムは互いに向かい合い、その顔は「贖いのふた」に向いていた。」(9節)

ケルビム(複数形)は、神の臨在を示す天使たちの名前の一つです。聖書の中では手、足、翼をもつ存在として表現されます。贖いのふたは、十戒が納められていた契約の箱につけられました。ケルビムが最初に登場するのはアダムとエバが追放された時です。

「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」

神の臨在のあったエデンの園への道には、ケルビムがいました。それでケルビムが神の臨在を示す存在として認識されるようになりました。このような賛美があります。

「我がもとで安きを得よ、ケルビムの翼のもとで。

汝がために現そう、ケルビムの翼のもとで」

出エジプト 36章

「モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。」(2節)

神のために奉仕することは、強制されてするものではなく、イエス様の御業に感動して、救われたことに感動して、自発的に行われるものです。神のためにやってあげる、教会のために仕方なくやっているというレベルの話ではなくて、神に仕えさせていただくという姿勢をもってすることが大事です。そして、主が授けてくださった賜物を用います。ある神学者は、自分が神に対する献身的な思いが薄れているように感じる時は、キリストの十字架を黙想するそうです。そして自分の心にこう言い聞かせるそうです。

「これらはみな、私のためにしてくださった」と。「イエス様、あなたの十字架を覚え、あなたの愛に迫られ生きていけますように。」

出エジプト 35章

「モーセはイスラエル人の全会衆に告げて言った。「これは、主が命じて仰せられたことである。あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい。」(4,5節)

モーセは聖所を造るために経済的な必要があることは分かっていました。しかし、各家庭に義務を分担するのではなく、それぞれが自由意志で神様に捧げるようにと言う神様の命令を語りました。モーセは、もしかしたら、それで経済的な必要が満たされるか不安だったかもしれません。しかし、結果は、

「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。」(21節)

「感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。」(26節)

経済的だけでなく労力まで満たされました。神の愛への自発的な応答が求められてます。

出エジプト 34章

「それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」(29節)

私たちはモーセがそうであったように、主との関係の中で輝くことができます。使徒パウロはこう解説しています。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント三・一六‐一八)

イエス様は私たちに「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ五・一四)

と言われました。

もっとも私たちがこの世界で輝くためには、主に向き、主との時間をとる必要があります。主の栄光を反映するからです。

出エジプト 33章

「それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」」(15,16節)

イスラエルの民が、他の民と区別されることは、神がいっしょにおいでになること、すなわち、神の臨在です。キリスト教会にも同じことが言えます。教会が地上のすべての場所と区別されることは、神の臨在です。聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

今日は主の日。

主の臨在の民として、共に主に礼拝を捧げましょう。

出エジプト 32章

「しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」(34節)

モーセが40日40夜戻って来ないのを見て、人々は自分たちの神を作ってしまいました。それを見た神は言われました。

「彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」(8節)

問題は、アロンが神のみことばよりも、イスラエルの人々の訴えを優先したことから始まりました。キリスト教会の歴史も、同じことが繰り返されてきました。神のみことばよりも、人々の訴えを優先する時、教会は堕落し、機能を果たさなくなります。私たちは、神を畏れ、祈りつつ、神の導きに従わなければなりません。