1サムエル 2章

「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(30節)

祭司エリの子供たちは、神の聖なるものを扱う役割でした。しかし、その職を軽視しました。エリはそんな息子たちを祭司として用い続けました。エリの言い分もあると思いますが、神に対する軽視があったと言われても仕方ありません。神はエリに言いました。

「わたしを軽視する者は、こちらでも軽視しよう。」(LB)

私たちは神を軽視していないでしょうか?キリスト教会を軽視していないでしょうか?礼拝を軽視していないでしょうか?キリストの十字架を軽視していないでしょうか?神のことば、聖書を軽視していないでしょうか?エリもエリの子供たちも、神を軽視したことに悲劇がありました。使徒パウロも警告しています。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。」(ガラ6:7)

1サムエル 1章

「彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(18節)

いつまで神に個人的な願いを祈り続けるべきでしょうか。合理的に考えれば、「一度祈れば、もう祈る必要はない。」となるかもしれません。しかし、聖書はそう教えていません。そもそも、私たちが願う前から神は私たちの願いを知っています。ですから、祈りは神に願いを知らせること以上に意味があります。いつまで祈り続ければいいのでしょうか?ハンナが祈りを終えた時、彼女の顔は以前のようではなかったとあります。この確信を得るまで祈る必要があります。神の答えが私たちが願っていたことと同じとは限りません。しかし、祈った後の私たちの顔は、ハンナと同じように、もはや以前のようではありません。

2コリント 13章

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13節)
聖書の神は、三位一体なる神です。唯一の神ですが、子なる神キリスト、父なる神、聖霊なる神の三つの位格があります。このことを知的に理解することができないために、多くの学者は否定しようと努力してきました。しかし、聖霊なる神は、はっきりとこの祈りのことばを使徒パウロに書き記させました。私たちが持つ知性で把握することが出来ないからと言って、神のご性質が変わることはありません。神は神であり、三位一体なる神です。コリントの教会に対して、パウロは厳しい言葉を並べてはいましたが、恵み、愛、交わりという三つを一つとしてまとめているところに、教会のあるべき姿を教えられます。今日は主の日。父、子、聖霊の三位一体なる神を礼拝し、主の恵み、愛、交わりで教会が一つにされますように。
>虹が出た日
先週水曜日は、まだ今回の大雨の期間の真っただ中でしたが、夕方出先から帰る途中の車中窓から大きな大きな七色の虹が見えました。慌てて夫に連絡し、外を見るようにといったのですが、ほんのわずかな時間しか出ていなくて夫が外に出た時には消えてなくなっていたようです。残念だったね、でもほんとに大きな虹だったね、と話しつつ、次の予定のために長男を駅に送ろうとして外に出たら、また大きな虹の橋が空いっぱいにかかっていました。再度夫に連絡し、今度は写真におさめることができました。教会の上にかかっている虹。それを見ただけで神様の愛の大きさを感じました。私たちには理解できないこと、やりきれない思い、今後への不安など心の中に絶えず戦いがあると思います。でも、ノアに約束の虹を見せてくださった神様は、すべてを超えて偉大なお方。善であり、愛の源です。嵐に目をとめ、沈みかけた私たちをその全能の御手で救い出してくださるお方です。神様の偉大さに目を向け、前を向いて今週も歩んでいきましょう!皆さんの祝福を祈ります。(小山晶子牧師夫人)
※ 本日の第二礼拝後13時よりTOV会(男性会)が開かれます。

2コリント 12章

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神様は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神様はただこう言いました。

「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神様の力が輝くと言います。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されると言います。マイナスは必ずプラスになります。

2コリント 11章

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(29節)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「誤った道を進んでいる人を見て、悲しまないでいられるでしょうか。倒れている人を見て、知らん顔ができるでしょうか。精神的に痛手を受けている人を見て、傷つけた相手に激しく怒らずにいられるでしょうか。」

この表現に使徒パウロの教会に対する思いを見ることができます。いや、使徒パウロに与えられた神様の教会に対する思いを見ることができます。教会は、キリストの花嫁だという箇所があるように、神様にとって教会と言うのはあってもなくてもいい存在ではありません。西洋の個人主義の影響で、信仰の個人的側面が過度に強調され、地域教会を過小評価する傾向が強くなっていますが、それは、神様の思いではありません。

「主よ、あなたの教会を大切にできますように。」

2コリント 10章

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(5節)

今日の箇所を直訳しますと、こうなります。

「神の知識に反対するあらゆる高慢、そして、すべての思考を捕らえてキリストに従順するように連行する」。

この世界には様々な考え方がありますが、私たちは聖書的な信仰に自分の考え方を捕らえて連行する必要があります。自然に身につくというものでもありません。私たちはそのための道具が必要です。畑を耕すためには鋤が必要です。勉強をするためには本が必要です。料理をするためには鍋が必要です。祈るためには信仰が必要です。同じように、私たちの考え方を聖書的な信仰に捕らえて連行していくために、道具が必要です。教会に集うこと、聖書を読むこと、祈ること、聖書的な説教(メッセージ)に耳を傾けることなど、私たちは自分の考えを聖書的な考え方に連行する道具が必要です。

※ 本日の10時から12時まで、「クリスチャンの生活と証コース」が栄シャロームでもたれます。(婦人会は合流)申し込み、登録は不要です。自由にご参加ください。

2コリント 9章

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10節)

このみことばが意味することは、収穫は自分が蒔く種よりも多いということです。しかし、蒔くことをしなければ、収穫を体験することはできません。信仰の世界と言うのは、そのようなものです。理解できたら信じるというのではなく、信じていくときに理解することができます。ここでは、献金という文脈で語られています。献金の恵みは、大変な状況の中でも信仰をもってささげていくということを実践しなければ体験できない世界です。厳しい状況の中でも捧げて行くときに、まさに、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」という世界を体験します。よく言われることですが、一個のりんごの中にある種の数は数えられても、その種から生み出されていくりんごの数を数えることはできません。

2コリント 8章

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」(1節)

この箇所でパウロが言う「神の恵み」とは「献金」のことです。ここでは特に「マケドニヤの諸教会に」とありますが、ピリピの教会のことです。2節にこうあります。

「多くの試練や困難のただ中にあったマケドニヤの諸教会が、ひどく貧しいにもかかわらず喜びに満ち、その結果、あふれるほど惜しみなく、他の人々に施すようになりました。」(LB)

パウロはピリピ書で彼らのことを言っています。

「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

経済的に困窮している人に献金をお勧めすることは申し訳なく感じます。しかし、献金を通して受ける豊かな報いは、それ以上です。ですから献金は私たちに与えられた神の恵みの世界です。

2コリント 7章

「マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」(5,6節)

使徒パウロと聞くと、私たちとは違う屈強なスーパー・クリスチャンをイメージします。しかし、使徒パウロもまた、私たちと何も変わらない普通の人でした。彼もまた不安を感じ、恐れを感じ、落ち込みました。しかし、

「その時、神様は意気消沈しているものを励まし、テトスの帰還によって元気づけてくださいました。」(LB)

聖書の神は、意気消沈しているものを励ますお方です。今も同じように、神様は私たちを励ましてくださるお方です。ダビデもこう告白しています。

「神様だけが、今は恥じてうなだれている私の頭を、高く持ち上げてくださるお方です。」(詩3:3LB)

2コリント 6章

「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、」(3節)

パウロは自分が伝道の妨げ、周りの人々のつまずきにならないように気をつけてきたと言います。LBではこのように訳しています。

「私たちは自分たちの行動が、だれかをつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、また、主を非難する口実に用いられないように気をつけています。」

私たちの行動が、だれかが主と出会うことを妨げるのならば、これほど悲しいことはありません。パウロのように細心の注意を払っていても誰かをつまずかせてしまうこともあります。しかし、パウロのような姿勢をもつことは大切なことだと思います。イエス様は、子供たちがイエス様のもとに来るのを妨げようとした弟子たちの行動を怒ったとあります。イエス様との出会いを妨げるならばイエス様は必ず怒られます。今日は主の日。多くの方が、主との出会いを体験できますように。