1サムエル 22章

「また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」(2節)

ダビデのもとに集まってきた人たちは、問題を抱えた人、不満を抱いていた人たちでした。しかし、彼らがダビデの勇士となったことを覚えたいと思います。コデイロ先生は言います。

「私たちの周りには、若いパウロや短気なペテロや自信のないテモテのような、あるいはプリスキラやマルタ、ルデヤのような人たちが大勢います。しかし、ドリームリリーサーの心を育てない限り、私たちがこうした人々に目を留めることはありません。こうした偉大な可能性を持った人たちは、しばしば見栄えの悪い包みにくるまれていたり、格好の悪い箱に入っていたりします。彼らは問題だらけのように見えますが、ドリームリリーサーはそのような包み紙の中にあるものを見通すことができるのです。」

1サムエル 21章

「それは何よりです。私に下さい。」(9節)

箴言29章25節にこういう箇所があります。

「人を恐れるとわなにかかる。」

サウルを非常に恐れたダビデはゴリアテを倒した剣を、

「それにまさるものはない。それをください。」(新共同訳)

と受け取ります。しかし、皮肉にも、剣を手にしたダビデに不安がつきまといます。榎本師は言います。

「彼の心が神から物に移ったとき、神にではなく、物に平安の根拠を求めたとき、彼は不安のとりこになってしまったのである。」

箴言は続けてこう記します。

「しかし主に信頼する者は守られる。」

榎本師は言います。

「しっかりと神により頼もうとするとき、私たちは何ものをも恐れない。しかし、ひとたびその目がこの世の物に移り、ゴリアテのつるぎを『それにまさるものはない』と思うようになるとき、その日私たちは不安のとりこになってしまう。」

今日は主の日。主に信頼し、共に礼拝を捧げましょう。

1サムエル 20章

「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」(3節)

ダビデはヨナタンに、自分が死と背中合わせであることを告げました。しかし、真実は、すべての人が死との間に、ただ一歩の隔たりしかありません。人は死亡率100%であり、神様の御手が退けられれば、いつでも取り去られてしまいます。神学者のマクグラスは言います。

「地上の人生は、新しいエルサレムで生きる希望によって大きく変えられます。・・・毎日の生活の決まったパターンしか見ない者がいる一方で、最後の運命は神にあることを知って、天を見上げる者がいる・・・人生とは墓で終わるものと信じている人々のような失望に捕らわれてはなりません。真実は全く違います」

神様は天国の喜びで私たちが地上を生きることを願っておられます。

1サムエル 19章

「彼もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」と言われるようになった。」(24節)

サウル王のダビデへの嫉妬は、ダビデ殺害への追撃と変わりました。ダビデはサムエルがいるラマに行き、サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話しました。ダビデに油を注いだのもサムエルですが、サウルに油を注いだのもサムエルです。どんなに複雑な思いだったでしょうか。サウルはその知らせを聞くと、殺害の思いに駆られてサムエルのもとに来ました。サウルを王として奮い立たせた同じ主の霊は、その終わりを示すがごとくサウルに臨みました。サウルが「着物を脱いで」ということは、王服を脱がされたということです。そして、サムエルの前に倒されました。彼は悪を行うことが出来ませんでした。同じ主の霊が、私たちが、私たちの周りの人を傷つけることから守って下さいますように。

1サムエル 18章

「それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。」(29節)

サウル王の治世の初期には、

「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(10:26)

とあります。神様は彼の周りに素晴らしい人々を備えてくださっていました。そしてダビデが彼の人生に現れました。ダビデは神の心にかなう人でした。しかもダビデは神を愛するだけでなく、サウル王に対しても忠実でした。しかし驚くことに、サウルはそんなダビデの敵となったとあります。サウルは、忠実な部下ダビデを脅威に感じたのです。どんな理由であれ、忠実な友人を脅威に感じ、背を向けてしまうなら、その人生は下り坂にあります。私たちが神から目を離してしまう時、忠実な友人の存在は、私たちに忠告を与えてくれます。どんな理由であれ、その忠実な友人を敵対視することがありませんように。

1サムエル 17章

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(47節)

この章は、有名な少年ダビデとゴリアテの話が記されています。ゴリアテは約三メートルの巨人でした。驚くことは、サウル王をはじめイスラエルの人々が非常に恐れたゴリアテを、少年ダビデは恐れなかったということです。榎本師はこう言っています。

「私たちはここで純粋に神を信じる者と、現実に目を奪われて、神を見失っている者とを見ることができる。」

サウルもイスラエルの人々も神は万軍の主と信じていたはずです。しかし現実に巨人ゴリアテを見た時、彼らの目は自分対巨人としか見ることができませんでした。ダビデもゴリアテを見ました。しかし彼は全能の神対巨人と見ることができました。その結果、神の力を体験しました。

問題を透かして主を見ることができますように。

1サムエル 16章

「神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。」(23節)

ダビデは音楽家でした。彼が作った歌は詩篇に残されています。それらは神への賛美の音楽でした。興味深いことは、サウルが悪い霊に悩まされる時、ダビデの賛美の音楽が悪い霊を追い出したということです。賛美には力があります。悪霊は神への賛美が嫌いで、神への賛美に満ちあふれた場所に悪霊はいることができません。なぜなら神は、

「イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(詩篇22:3)

さらに、サウルは賛美の中で「元気を回復」したとあります。口語訳では

「気が静まり、良くなって」、

新共同訳では

「心が安まって気分が良くなり」

と訳しています。賛美は私たちに力も与えてくれます。

1サムエル 15章

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(22節)

メッセージ訳ではこう訳しています。

「神様が求めているのはただいけにえ・・・ショーのような空しい儀式だと思いますか?神様はあなたに聴いて欲しいのです。豪華な宗教的なプロダクションの上映ではなくて、普通に聴くことが大事なのです。」

スポルジョンはこう言っています。

「グレゴリア聖歌、祭服、香、旗について語ってはいけない。神がその子たちに第一に求められることは、従順である。たとえあなたが焼かれるために身を渡し、自分のすべての財産を貧しい人のために与えたとしても、もし主の教えに耳を傾けないならば、あなたのすべての形式は、あなたに益を与えない。」

1サムエル 14章

「たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(6節)

前の章の22節で、イスラエル全軍の中で剣や槍をもっているのはサウルとヨナタンだけだったとあります。人数だけでなく、いろいろな意味でイスラエルは劣勢でした。しかし、神にとってはそんなことは問題ではありませんでした。神のみこころならば、妨げるものは何もありません。私たちは神が働くことができるように、ヨナタンのように信仰の冒険をすることも大切なことです。たとえどんなに劣勢に見えても信仰の一歩を踏み出す時、

「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」

ということを知ることができます。

今日は主の日です。偉大なる神に礼拝を共に捧げましょう!

1サムエル 13章

「サムエルは言った。『あなたは、なんということをしたのか。』サウルは答えた。『民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。』」(11、12節)

サウル王の問題は、自分が召されていないことを、周りからのプレッシャーのゆえにやってしまったということです。サウル王は祭司ではないのに、祭司でなければしてはいけないことをしてしまいました。私たちは様々なプレッシャーのゆえに愚かな決断をしてしまうことがあります。人を操ろうとする人は、常にプレッシャーを与えて動かそうとします。私たちはどんなにプレッシャーをかけられても、操られないように神のみこころを求める時間を確保する姿勢が必要です。