1列王記 4章

「ナタンの子ザブデは祭司で、王の友。」(5節)

ソロモンの高官たちの様々な仕事のリストが並べられる中で、ナタンの子ザブデは、祭司という仕事だけでなく、「王の友」と挙げられています。彼の仕事の一つは、王の友であることだったと言うのです。キリストを信じる者も、「王の友」です。王の王、イエス・キリストの友だからです。イエス・キリストはおっしゃられました。

「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネ15:15新共同訳)

王の王、イエス・キリストの友と呼ばれることは、なんという光栄、祝福でしょうか。イエス・キリストは、私たちを奴隷としてではなく、友として扱ってくださっているというのは驚くべき内容です。特別な仕事ができなくても、イエス・キリストの友として時間をとるだけでも意味があります。

1列王記 3章

「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(9節)

神はソロモン王に言いました。

「何なりと望むものを求めよ。与えてやろう」(5節LB)

彼はそれに対して、神の民を治めるための自分の経験や能力の不足を表明して、

「聞き分ける心」、

「判断力」(LB)、

「理解する心」(NKJV)

を求めました。原語は

「聞く心」。

人々に聞く心、

神から聞く心

という意味。神はソロモンが自分のことではなく神の民のことを考えた答えに喜び

「望まなかった財産と名誉も授けよう」(13節LB)

とおっしゃられました。私たちも、まず、自分のことではなく、神の国を求める姿勢をもちたいと思います。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

1列王記 2章

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。」(2節)

ダビデの時代に、「復活」という教えはありませんでした。「死」というのは神の領域であり、人にはどうすることもできない領域でした。ですからダビデはただ、

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」

とだけ言いました。しかし今、イエス・キリストが死の力を打ち破りよみがえられましたから、私たちには栄光の保証があります。私たちがこの肉体を離れる日、私たちは神のみもとにいます。(Ⅱコリ5:8参照)私たちは、

「子供たちよ、私はこれから主のみもとにいく。主と共にいることは本当に素晴らしい!」

と言うことができます。永遠のいのち、栄光の望みがあります。ダビデがソロモンに語った勧めは私たちにも適用できます。

「強くあれ。あなたが造られた目的に生きなさい。神があなたに語ることを行ないなさい。」(メッセージ)

今日は主の日です。

※ 本日のSSCは、児童祝福式がもたれます。

1列王記 1章

「一方、ハギテの子アドニヤは、『私が王になろう。』と言って、野心をいだき、戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れた。」(5節)

アドニヤは、老いた父、ダビデ王に代わって、自分こそ王位につくべきだと考えました。確かに、彼は周りから見てもふさわしい人物のように見えました。しかし、新共同訳では、彼は「思い上がって『わたしが王になる』と言い」と訳しています。聖書は私たちが思い上がって、自分で自分を高めないように警告しています。「みな、謙遜になって互いに仕え合うべきです。神は、高慢な者には敵対し、謙遜な者には恵みを与えられるからです。あなたがたは、神の力強い御手の下で自分を低くしていなさい。ちょうどよい時に、神はあなたがたを高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,6LB)

ガラテヤ 6章

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(1節)

「メッセージ」という訳では、1節をこう訳しています。

「友よ、創造的(クリエイティブ)に生きなさい。もし、誰かが罪に落ちたなら、赦しつつ回復させなさい。あなたの批判的なコメントは自分自身のためにとっておきなさい。あなたがその日が終わる前に必要かもしれないからです。」

つまり、聖書的に「御霊の人」、「霊的な人」は、自分の弱さを知っている人であり、批判的にならずに、赦しの心をもっている人だと言います。ガラテヤの教会の人で、過ちに陥った人がいたのだと思われます。パウロはその人を責めるのではなく、聖霊の実である柔和をもって、その人を受け入れ、回復させなさいと言いました。これが、「御霊の人」の集まりである、教会のあるべき姿です。

ガラテヤ 5章

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(15節)

ガラテヤのクリスチャンたちは、互いに、いがみ合ったり、非難し合っていました。手紙全体から想定できることは、ガラテヤのクリスチャンたちは、ユダヤ民族のしるしであった、割礼や食物規定などの「律法の行ない」によって、神との関係に安心感をもっていました。この「律法の行い」が皮肉にも踏み絵となり、互いを裁き合う結果になっていました。割礼を受けたら一流、割礼がなければ二流。パウロは、クリスチャンのしるしは「律法の行い」ではなく、「聖霊の内住」だと訴えます。神が望んでおられることを一言でまとめるなら、「互いに愛し合うこと」だと言います。パウロの「皮肉」が聞こえてくるように感じます。「互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、本当に律法を守っているとは言えないですよ。」

ガラテヤ 4章

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(6節)

「神」が主語なので、「神は」と訳したということだと思いますが、日本語としては、「神を『アバ、父』と呼ぶ」と訳したほうがすっきりします。しかし、聖霊が「アバ、父」という祈りの言葉を与えてくださるという意味ならば、この訳はこの点を強調していると考えられます。聖霊は、「アバ、父」と叫ばせる、私たちを祈りに導かれるお方だということです。「祈り」は、聖霊が私たちの内に住まわれている証拠です。聖霊が私たちの心の中に住んでおられるから、私たちの内側から祈りが沸きあがってくるということです。それは、「洗練された言葉」として湧きあがることもあれば、日本語としては意味をなさない、叫びでしかないこともあります。大事なことは、聖霊に導かれて祈ることです。

ガラテヤ 2章

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(20節)

「神の御子を信じる信仰によっている」

と訳された言葉は、

「神の御子の信実の中でわたしは生きている」

と訳すことができます。信仰生活は、もちろん、イエス・キリストを信じる信仰によって生きていくという側面があります。しかし、同時に、それは、イエス・キリストの信実、私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたという神の御子イエス・キリストが成し遂げられた救いの御業の中で生きていくという側面があります。イエス・キリストの十字架の御業が、私たちの生きる原動力です。

ガラテヤ 1章

「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」(17節)

アラビアとは、パウロにとっての退修の場所でした。私たちも日常から退却して神との時間をとるアラビアが必要です。友人や家族や批判者の言葉ではなく、神のみことばに耳を傾ける時間が必要です。静かな部屋で神様との時間をとるならば、それがアラビアとなります。日曜日の礼拝の時間もアラビアとなります。私たちは、神が愛されていること、赦されていること、受け入れられていることを自分の心に浸す時間が必要です。パウロは焦って自分の働きに出て行くことはしませんでした。彼は神が働かれていることを知っていました。神が彼を必要としているのではなく、彼が神を必要としていたのです。アラビアは、パウロにとって、神を自分の中心に据える訓練の場となりました。

今日は主の日。主を礼拝し、主の臨在に浸りましょう。

2サムエル 24章

「しかし王はアラウナに言った。『いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。』」(24節)

ダビデは神に命じられたとおりアラウナと言う人の打ち場に行き、そこに祭壇を築くためにその場所を購入しようとしました。(ここに神殿が建てられます。)アラウナは無料でその場所を提供することを進言します。無料で手に入れることができるという話は、ダビデにしたら悪い話ではないはずです。しかし彼は言います。

「いやいや、ただで受け取るわけにはいかん。ぜひ、売ってもらいたい。神様に、何の犠牲もはらわず、完全に焼き尽くすいけにをささげたりはできんのでな。」(LB)

ダビデは、「犠牲」(いけにえ)の意味を理解していました。犠牲の伴わない、いけにえはありません。神は私たちの犠牲を受けるのにふさわしいお方です。

※ 明日のSSCは、第一(9時)、第二(10時半)、第三(18時)の礼拝で、神の家族主イエス・キリスト教会の田島実先生がメッセージしてくださいます。ぜひ、ご参加ください。