2列王記 12章

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行なった。」(2節)

ヨアシュ王は祭司エホヤダが生きている間は、神を喜ばせようと一生懸命に努力しました。しかし、歴代誌を見ると、

「エホヤダが死んで後、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。」(2歴代誌24:17)

ヨアシュは傲慢になり、自分にひれ伏す高官たちに操られてしまいます。その時、祭司エホヤダの子ゼカリヤに聖霊が臨みました。

「なぜ神様の戒めに背いているのか、神様は、そのわけを知りたいと言っておられる。こんな状態では、何をしても失敗に終わるだけだ。」(20節LB)

傲慢になったヨアシュ王は、彼に対して愛と忠誠を尽くした祭司エホヤダの子ゼカリヤの言葉にも耳を傾けられなくなってしまいました。

「神は高慢な者を退け、謙遜な者に力をお与えになります。」(ヤコブ4:6LB)

2列王記 11章

「こうしてエホヤダは、王の子を連れ出し、彼に王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。彼らは彼を王と宣言した。そして、彼に油をそそぎ、手をたたいて、『王さま。ばんざい。』と叫んだ。」(12節)

ユダの王、アハズヤが死んだ時、その母、アタルヤは、王の一族をことごとく滅ぼして、自分が王となりました。王の一族というのは、神様が約束されたダビデ王の子孫という意味です。もし、本当に王の一族が全滅していたら、ダビデの子孫から救い主が生まれるという預言は成就することはありませんでした。ところが、一歳だったヨアシュは、叔母のエホシェバに助け出されました。その後、六年間、身を隠していましたが、七年目に、祭司エホヤダが、ダビデの子孫、ヨアシュを王と宣言しました。どんなに悪魔が邪魔をしても、神様の約束は必ず成就します。

2列王記 10章

「しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。」(31節)

エフーはイスラエルの国における宗教改革を徹底的に行った人物だと考えられていました。彼はイスラエルにバアル宗教を導入したイゼベルをはじめ、バアル礼拝者を一掃しました。しかし、聖書は言います。

「ところがエフーは、真心から神様に従おうとはしませんでした。」(LB)

エフーは確かに神様に従って、イスラエルの中にあった悪を一掃しました。しかしチャック・スミス師は、エフーはこれらを政治的な動機でしていただけで、霊的な動機ではなかったと指摘します。エフーの動機は、神様に対する畏れではなかったと言うのです。今も昔も、宗教戦争という名目で利権の戦争が世界中で起こっています。私たちは表面的な部分で判断しないように気をつける必要があります。

神様は心を見ます。

2列王記 9章

「ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」」(22節)

「元気か?」と訳された言葉の原語は「シャローム」。あいさつのことばですが、「平和、平穏無事」という意味があります。ですからエフーは「何が元気か!」ではなく「何が平和か!」と言いました。F・B・マイアーは、こんなことを言っています。

「イゼベル的な不貞や色香をゆるすかぎり、真の平和はありえません。イゼベルはその奸計と容色とをもって虚飾の世界に君臨しました。けれども、その魅力がいかなるものであろうとも、真の平和が来る前には、それは吹き飛ばされなければなりません。」

神に油注がれたエフーによってイゼベルがつくりあげた偽りの平和は吹き飛ばされました。そして今、平和の君、イエス・キリストの十字架によって本物の平和はもたらされます。

2列王記 8章

「彼が王に、死人を生き返らせたあのことを話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。そこで、ゲハジは言った。『王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子どもです。』」(5節)

エリシャは、子どもを生き返らせた婦人に、イスラエルに飢饉があるので家族を連れて疎開するように言いました。飢饉が終わり、イスラエルに戻り、王に自分の家と畑を返してくれるように願い出ると、

「たまたま王は、エリシャのしもべゲハジと話している最中でした。」(4節LB)

ちょうどゲハジがエリシャが子ども生き返らせた時のことを話していた時に、この婦人が王に願いに来たのです。その結果、全部返していただくことができました。神様の導きに従って行くならば、「たまたま」、「ちょうどそこに」という神の摂理を体験することができます。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

2列王記 7章

「さて、町の門の入口に四人のらい病人がいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。」(3,4節)

「愛する友よ。この書は主として信者への教訓として書かれたものだが、もしあなたが救われていないならば、私は心からあなたに同情し、あなたの祝福になることを語りたいと思う。聖書を開いて、らい病人の物語(Ⅱ列王記7章)を読んでいただきたい。なんと彼らの状態はあなたのそれと似ていることか。もしあなたが現在の所にとどまっているならば、あなたは滅びなければならない。…不機嫌に失望の色を浮かべじっと座っていても、破滅が来た時、だれもあなたを顧みるわけではない。…しかし、主の側に立って、主を求めるならば、あなたは主を必ず見いだすということを私は保証したい。イエスはご自分のもとに来た者を捨てられたことがない。」(スポルジョン)

イエス様の中に希望があります。

2列王記 6章

「そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」(17節)

アラムの軍勢がエリシャの町を包囲しているのを見て、彼のしもべは恐れに縛られていました。それで、エリシャが彼の目が開かれるように祈ると、アラムの軍勢を天の軍勢が取り囲んでいるのが見えました。日常生活の中であまり意識しないかもしれませんが、霊の次元というものがあります。私たちは物質的な次元しか見ていないので、すぐ落胆し、行き詰まりを感じてしまいます。物質的な次元では、私たちの敵はあまりにも強大に見えてしまいます。しかし、エリシャは言いました。

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(16節)

2列王記 5章

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」(14節)

ナアマン将軍は、ツァラアトに冒されていました。(「ツァラアト」は、二版では「らい病」と訳していましたが、「ハンセン氏病」など、特定の病名と結び付けられないことから三版でヘブル語表記となりました。)彼は自分の病気をいやしてもらうためにわざわざエリシャのもとに来たのに、エリシャが出て来てあいさつもせず、ただヨルダン川に七たび身を浸すように言ったことに腹を立てました。しかし、部下の進言に耳を傾け、エリシャが言ったとおりに実行しました。その時、いやしを体験しました。どんなに納得できなくても、「神の人の言ったとおりに」、現代の私たちに適用するなら、聖書のみことばとおりにという姿勢が、人生に奇跡をもたらします。

2列王記 4章

「器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。」(6節)

エリシャが言うように、からの器を集めて、その器に油をつぐと、油は尽きることなく次々にその器をいっぱいにしました。しかし、器がなくなると、油は止まりました。アルゼンチンのリバイバリスト、アナコンディア師は、

「空の器を捜して歩き、愛の油を注ぎ続けよう」

と言いました。

「愛の油を注ぎ続ける限り、油注ぎは止まることはありません」

と。私たちは愛の油を求めます。しかし、現実は、「これっぽち」と思っても、空っぽの人々に注ぎ続けることによって、愛の油が止まらないことを体験します。私たちが注ぐ愛は、自分の愛ではなく、神の愛だからです。ですから、愛の油が止まったと感じるのは、注ぐ器を見失っているからかもしれません。

2列王記 3章

「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、」(15節)

エリシャはイスラエル、ユダ、エドムの求めに応じて神様からの預言をするために、立琴をひく者を呼んで、立て琴をひき鳴らす中で主の手がエリシャの上に下り、語りはじめました。聖書を見ますと音楽と神の油注ぎが切り離すことができない関係にあることを見ます。ですから教会において、礼拝音楽はとても重要な位置にあります。賛美の中で私たちの心は神のことばを聞く心に整えられ、私たちの人生の中における聖霊様の働きに心の扉を開くことができるからです。聖書にこう書いてあります。

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5:18,19)