詩篇 14篇

「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」(1節)

聖書は

「神はいない」

という態度が、すべての問題の根源だと教えています。

メディアは「宗教」が恐ろしいと洗脳しますが、「神はいない」という思想の下で、多くの血が、中国、ソ連、北朝鮮といった共産圏でも流されてきたことを忘れてはいけないと思います。人間を造られた創造主を否定して、すべてを偶然だと片付けてしまいますと、人間の尊厳も、存在意義も見失われててしまいます。神を恐れない人は、

「人々をファスト・フードのように扱う」(4節MSG)

ことも平気になってしまいます。ちいろば先生がこんなことを言っています。

「私たちは、言葉では『神はない』とは言わないかもしれない。しかし本当に神があるということを『心の中』、いわゆる自分の存在を賭けて言っているだろうか。」

詩篇 13篇

「主よ。いつまでですか。」(1節)

ワーシップ・リーダーのマット・レッドマンがこんな記事を書いています。

「確か、ユージーン・ピーターソン(メッセージ訳の訳者)だったと思いますが、こんなことを言っています。詩篇の七〇%は哀歌で、作者の暗闇の時期に書かれたものです。神に「この状況を、あなたはどうされようとしているのですか?」と泣き叫んでいるものです。詩篇13篇を見ると、「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。」と質問に質問が繰り返されています。でも、終わりに彼は言います。「私はあなたの恵みに拠り頼みました。」(5節)彼は、すべて今は順調だと言ったのではなくて、信頼の問題だと言ったのです。自分はよく分からない。この苦しみから自由になりたい、でも、一日の終わりには、主よ、あなたを信頼します。」

詩人は言います。「しかし私はあなたの尽きない愛を信頼します。」(5節NIV)

詩篇 12篇

「主よ。お救いください。」(1節)

ここに力強い祈りの言葉があります。ここで使われている「お救いください」という言葉に「お願いします」という意味の「ナ」を付け加えると「ホサナ」になります。イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城する時、人々は「ホサナ!」と叫びました。これは、「お救いください。お願いします!」という意味があります。「お救いください」とも訳せますが、「主よ。助けてください。」とも訳せます。マタイ14章でペテロが溺れたとき、叫んだ祈りがこの祈りです。

「主よ。助けてください。」

イエス様は、この叫びを聞かれて、「すぐに手を伸ばして、彼をつかん」だとあります。追い詰められた時、「主よ。助けてください。」と主を呼び求める時、私たちは神の現実を体験します。ちいろば先生はこう勧めます。「よく『神様が分からない。神様が分からない』と言う人がいますが、…神様の言葉に聴き従って御覧なさい。」

詩篇 11篇

「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)

1節から3節まで、詩人はこの地上の混乱に関して言及します。

「『法も秩序もなくなった。正しい者は逃げるしかない』と、人々は言います。」(3節LB)

しかし、詩人はその視点を地上から天に移します。

「しかし、主は依然として聖なる宮に住み、天からすべてを支配しておられます。地上での出来事をことごとく監視しておられます。」(4節LB)

神は確かに今生きておられ、すべては神の御手の中にあります。そして、神はすべてを正しくされます。たとえ今そう見えなくても、最後には神はすべてを正されると聖書は伝えます。もっとも「正義」という名の下で多くの悲劇が繰り返されてきたことを忘れてはいけないと思います。神の正義が、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様の中にあったことを忘れてはいけません。

今日は主の日。共に主を礼拝しましょう。

詩篇 10篇

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。」(17,18節)

リビングバイブルでは、こう訳しています。

「主よ。あなたは謙遜な人の望みが何であるかご存じです。必ずその叫びを聞いて救いの手を差し伸べ、心に安らぎを与えてくださいます。主は、みなしごや虐待されている人たちのそば近くにいてくださるお方です。それで彼らは、地上の者たちから、二度と脅かされることはありません。」

1節では、詩人は神を遠く感じていました。苦しみのときに、神の不在を感じていました。しかし、最終的に神が実はそば近くにいてくださるお方であることを確信します。詩人を確信に導いたのは、「祈り」であることを心に留めたいと思います。

詩篇 9篇

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(10節)

主は、主に拠り頼む者をお見捨てになるような方ではありません。しかし、私たちは時々揺らいでしまうことがあります。揺るがない信仰生活のためには、主の御名を知る必要があります。主の御名は、聖書の中に散りばめられています。

「エル・シャダイ」という御名は「全能の神」という意味です。

「ヤハウェ・ラファ」は「いやし主」。

「ヤハウェ・シャローム」は「平和の主」。

「ヤハウェ・シャマー」は、「ここにおられる主」。

「ヤハウェ・イルエ」は「備え主」。

つまり、私たちがより頼むお方は、全能であり、いやし、平安を与え、共におられ、私たちの必要を備えてくださるお方だというのです。このお方を、知識としてだけでなく、体験していきましょう。

詩篇 8篇

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(5節)

浅野師は、「劣るもの」と訳されているヘブル語は、「後に立つ」と解釈することができ、神は先に立ち、人間はそのうしろに立つ、神は導き、人はそれに従うという意味となると言います。確かに、これが本来の人間の姿でもあります。神を神として認め、神の導きに従う・・・ここに、人間としての栄光、誉れがあります。8篇の最初の行と最後の行は、同じ文章です。

「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

「私たちの主、主よ」というのは面白い表現です。実は後半の「主」は、神の名、「ヤハウェ」が使われています。「私たちの主、ヤハウェ」となります。「私たちの主」は肩書きで、「私たちを治める方、統治者」という意味があります。エルサレム途上の「ちいろば」のように、王なるイエス・キリストに従う人生こそ、栄光ある生き方です。

詩篇 7篇

「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。」(1節)

ダビデは自分の中傷者を

「獅子」(2節)

のようだと言います。興味深いことに、使徒ペテロもこう言います。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)

どうやって悪魔は私たちを食い尽くそうとするのでしょうか?私たちを責める事によってです。「あなたは失敗者だ」「それでもクリスチャン?」「あなたは間違っている」と、私たちの耳にささやきます。これらは悪魔の言葉です。私たちは、悪魔の火矢のように、日々の生活の中で非難の矢、中傷の矢を受けることがあります。だから、日々、聖書のみことばに触れる必要があります。神のことばに耳を傾ける必要があります。

詩篇 6篇

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(6節)

スポルジョン師は、

「涙は、液体の祈りで解釈はいらない」

と言います。新共同訳では次のように訳しています。

「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」

感情的だと問題視する人もいるかもしれません。しかし、このような涙の祈りはイエス様ご自身もなされた、聖書的な方法です。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

もちろん、涙を流せばいいという意味ではありません。イスラエルに「泣き屋」がいましたが、人はうわべを見ますが神は心を見ます。大事なのは私たちの内側であり、私たちの砕かれた心を神は軽視することはありません。

詩篇 5篇

「私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」(2節)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」(3節)

とありますので、この詩を「朝の祈り」と一般的に考えられています。一日のはじめを、祈りをもってはじめるということは素晴らしいことです。出エジプト16:21にこういう箇所があります。

「彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。」

これは、天から与えられたマナのことですが、朝ごとに祈り、聖書のみことばをいただくということも、同じように適用できると思います。2節をLBはこう訳しています。

「私はあなた以外のだれにも、決して祈ったりしません。」

聖書は

「神だけに頼る」

ということを、私たちが学ぶ必要があることとして語っています。