詩篇 117篇

「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。その恵みは、私たちに大きく、そのまことはとこしえに至る。ハレルヤ。」(1,2節)

2節をLBでこう訳しています。

「主は私たちを、この上もなくいとおしく思ってくださり、永遠に真実であられます。主をほめたたえなさい。」

神がどれほど私たちを思っておられるかは、ご自身の御子、イエス・キリストを与えるほどだと聖書は言います。それは、私たちの理解をすでに超えています。神は真実を尽くしてくださるお方です。使徒パウロは、このように表現しています。

「しかしたとえ、信仰をなくしたかと思えるほど私たちが弱くなっても、キリストは真実を貫き、私たちを助けてくださいます。私たちは主の一部分になっているので、切り捨てられることはないのです。そして、主はいつも約束を果たしてくださいます。」(Ⅱテモテ2:13LB)

詩篇 116篇

「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。」(12節)

この詩人は順風満帆に人生を送ってきたわけではありません。この個所の前後には彼の体験してきた試練や悩み、時には死を意識しなければならなかった出来事に言及されています。

「私は失意に沈んでいたころ、「人々は私に『良くなる』と言ってくれるがそれはうそだ」と思い悩んでいました。」(10,11節LB)

詩人はそんな中で、神様が注いでくださった恵みの数々を数え、何をお返しすることができるだろうかと考えます。そして、詩人は人々が集まる神の宮に集い、神を礼拝することによって、主にお返しします。神が求めているのは「礼拝者」だとイエス様は言われました。(ヨハネ4章参照)今日は主の日、主が注いでくださった恵みを思い出し、共に賛美と礼拝を神様にお返ししましょう!

詩篇 115篇

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(1節)

東京基督教大学にドイツから大きなパイプオルガンが運ばれてきました。ドイツで一度組み立てた後、解体して二カ月かけてまたチャペルで組み立てるという気の遠くなるような作業の果てに素晴らしいパイプオルガンが完成しました。その後、そのパイプオルガンによる初めての演奏会がおこなわれました。次々に迫力のある演奏が披露され、最後に外国人演奏家が音を奏で始めました。決して派手な演奏ではありませんでしたが、胸を打つ、心に迫る演奏にチャペルは割れんばかりの拍手がわきおこりました。その時、彼は人差し指を口に当てました。そしてその手でチャペル前方に掲げられた十字架を指し示したのです。「すべての栄光を主に」という彼の姿はそこにいた人たちの心に深く刻まれました。

詩篇 114篇

「海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。」(3節)

ここだけ読むと、「?」という印象を持つかもしれません。LBでは

「紅海は、神の民の近づく足音に慌てて二つに分かれ、ヨルダン川は、歩いて渡れる道を作りました。」

とあります。まさに、これは旧約聖書に出てくる、イスラエル民族における、二つの大きな出来事の記録です。どちらも「あり得ない状況」から神が超自然的方法を用いて救い出してくださった出来事です。神に不可能なことはありません。しかし、何度も神の奇跡を体験していたイスラエルの民は、事あるごとにそのことを思い起こし、神がどのようなお方であり、どこから自分たちを導き救い出してくださったかを繰り返し思い起こす必要がありました。このことによって彼らは神の視点にいつも自分の視点を修正していたのです。私たちにとっても、この習慣は大切だと思います。神がなされた御業を思い起こそうではないでしょうか。

詩篇 113篇

「日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。」(3節)

『日の昇るところから沈む所まで』

という表現は詩篇の中に頻繁に登場します。この言葉は、すべての場所、世界中でという意味を持っている言葉です。別に、太陽が昇って落ちるという科学的な説明をしているわけではありません。比喩です。現代訳では

『世界中どこででも、主をほめたたえよう。』

と訳しています。どんな場所でも、どのような状況でも主をほめたたえよう、とこの詩人は呼びかけているのです。私たちはいつの日か、世界中のキリストを信じる人々とともに神を賛美する時が来ることを信じています。一人で賛美することも大切ですが、多くの兄弟姉妹と一緒にひと所に集まり、声をあわせて賛美するときに、わたしたちは天国の前味を体験することができます。共に集まり、主の御名をほめたたえることは、聖書が命じていることです。

詩篇 112篇

「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」(7節)

私たちの心は、置かれている状況によって簡単に揺らぎます。九回嬉しいことがあっても、たった一度良くない出来事が起こると、九回の嬉しいことはあっという間に記憶から消滅してしまいます。残るのは不安や恐れだけ。そんな経験をしたことがあると思います。しかし、詩人は告白します。

「彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、不安になることもありません。主に見放されるわけがないと、信じきっているからです。」(LB)

私たちはさらに確実な聖書のみことばの約束があります。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

みことばに信頼して歩んでいく時、プラスに見えることもマイナスに見えることも神は用いて最善に導かれます。

詩篇 111篇

「主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人々はみな良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。」(10節)

『主を恐れることは知恵の初め』

この言葉はとても重要です。主を恐れるとは、創造主なる神を、聖書の神を、神として認める、畏敬の念を持つ、ということです。しかし、残念なことに、信仰がなく、学問や歴史書としてしか聖書を学ぼうとせず、真理から遠ざかっていく「神学者」がたくさんいます。信仰がなければ聖書の奥深い真理を知ることは決してできません。私たち人間には理解できない神の領域があるということを知って初めて、真理を知るというスタートラインに立つことができます。へりくだり、神に聞く耳を持つことによって初めて、神は聖書の真理を私たちに語ってくださいます。聖書は信仰をもって読むべきものです。興味深いことに初代教会の始まりに、こんな記録があります。

「だれもが心から神を恐れ敬うようになり」(使徒2:43LB)

詩篇 110篇

「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」(1節)

今日の箇所は「メシヤ詩篇」として有名です。この詩は新約聖書に最も多く引用されています。マルコの福音書の12章ではイエスがこの箇所を引用して、メシヤ(キリスト)は「神の子」であるというキリストの神性に言及します。イエス・キリストは自分が「神の子」などと言ってはいないとか、聖書はイエスの神性を教えていないとか言う人がいますが、この箇所は明らかに、イエス・キリストの神性が語られています。イエス・キリストは真の神であり、真の人でした。ですから、私たちすべての人の罪の身代わりに十字架で死ぬことができました。そして、復活され、天に昇られた今、神の栄光の御座に着座されました。イエスは旧約聖書で預言された通り全地の王となられました。キリストを信じる者は救われます。キリストは再び来られます。

詩篇 109篇

「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。」(28節)

呪われても神の民は心配する必要はありません。神がそれを上回る祝福をしてくださるからです。LBはこう訳しています。

「彼らは、のろいたいだけのろえばよいのです。あなたの祝福さえあれば、私は何も気にしません。私を亡き者にしようとする彼らの努力は水の泡となり、私は喜びながら出歩けるようになります。」

ですから私たちが最も必要としているのは神の祝福です。詩篇133篇には、兄弟姉妹たちが一つとなって共に集まるその所に祝福が命じられるとあります。ペンテコステの日も、信徒たちが一つとなって集っている所に聖霊が臨まれました。週の初めの日(日曜日)に、イエス・キリストの御名によって一つとなって神を礼拝することは、私たちが考える以上に意味があります。日々の生活の中で呪われていると思うほどのことがあります。しかし、共に礼拝を捧げる中で神が祝福します。今日は主の日です。

詩篇 108篇

「神によって、わたしたちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます。」(13節)

この詩篇の表題は、

『歌。ダビデの賛歌』

です。ダビデはイスラエルの王となった人物です。国を繁栄へと導き、その王国は息子ソロモンの時代に繁栄を極めます。一人の羊飼いの少年に過ぎなかったダビデが国のリーダーとなったわけですから、自分の力を誇ることもできたはずです。しかしダビデはどれほどの栄華を極めようとも自分の力を誇ることはしませんでした。むしろ、『神によって』という姿勢は強まっていったような印象を受けます。そんなダビデでしたから、死を前にして、息子ソロモンにこのような言葉を残しました。

「あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへいっても、栄えるためである。」(1列王記2:3)