詩篇 128篇

「あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。」(2節)

聖書は自分の手の勤労の実を食べることは幸せなことと教えます。労働に対する報酬を受けることが、人に満足感を与えます。この世においては

「自分の仕事に生きがいを見いだす以上に幸福なことはない」(伝道者3:22LB)

とまで言います。神を信頼して正しく生きようと努め、正当な報酬を受けるならば、本当の幸福を体験します。

「その人へのほうびは、繁栄と幸福です。」

「これこそ、主を信頼する人たちの姿です。主が天から祝福と喜びを注いでくださいますように。」(2,4,5節LB)

ジョン・ウェスレー師はこう言いました。

「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、できるだけ与えなさい。」

勤労の実である富と繁栄を何に用いてるでしょうか。主は言われます。

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」

詩篇 127篇

「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(1節)

神が建築責任者となってくださいますが、私たちが建てなければ家は建ちません。神が守ってくださいますが、見張りが必要ないというわけではありません。私たちの側がすべき分と神がなさる分があります。ですから、主を信頼することは、受け身になって、何もしなくてもいいということとは違います。逆に、謙遜に自分の分を努めることが求められます。神の御国がこの地にもたらされることを祈り求めるということは、自分がその神の使命(ミッション)に積極的に生きることも意味します。ただ、同時に2節のことばを忘れないようにする必要があります。

「主は、愛する者には必要な休息を与えようとなさるお方です。」(LB)

休息もまた、私たちの分です。

詩篇 126篇

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(5,6節)

神は私たちが涙の谷に行くことを許可されることがあります。目を泣きはらして出ていくことを許されることがあります。なぜなら、そのような状況の中で、人はやっと祈りに導かれて神のもとに行くことができることを知っているからです。砕かれて、神を求める時、神が答えてくれます。私たちが求める正しい相手は、生ける神、イエス・キリストです。主は祈りに答えて、私たちの涙を喜びに変えてくださいます。泣きはらした目も、喜びの叫びに変わります。マイナスはプラスになります。万事は益となります。それを見て、人々は言うようになります。

「主は彼らのために、おどろくべきことをなさった。」(2節LB)

詩篇 125篇

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」(1,2節)

LBでは、こう訳しています。
「主を信頼する人は、シオンの山のように、どのような状況でも動じません。エルサレムがその周囲の山々に守られているように、主もご自分の民を取り囲んで、守ってくださいます。」

私たちの主は、私たちを取り囲んで守ってくださるお方です。ですから、どんな状況でも動じないというのです。私たちの心は、ちょっとした状況の変化にも動揺しやすいところがあります。すぐ、不安になってしまうこともあります。もっともシオンの山には、神の臨在の象徴である神殿がありました。「シオンの山のよう」という意味には主の臨在への意識があると思われます。まさに、主が共におられるということを認識することこそ不安に対する処方箋だからです。

詩篇 124篇

「「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。」(1節)

「もしも神が私たちの味方でなかったなら」と考えるだけで恐ろしくなります。すべてをご存じで、私たちを気にかけ、愛してくださっている神を信じるからこそ、私たちは安心して日々生きることができます。私たちはイエス・キリストの十字架を通して確信をもつことができます。神の側から私たちの手を離すことはありません。しかし、私たちの方が、神の御手を振りほどき、自分勝手な道を突き進むならば、神と敵対して歩むことになります。ですから、わたしたちは自分が今どこにいて、どこに向かっているのかを日々確認する必要があります。神とともに、歩む時にパウロが語ったこの約束は確かに私たちとともにあります。

「神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

詩篇 122篇

「エルサレムの平和のために祈れ。『お前を愛する人々が栄えるように。』」(6節)

これは、ダビデによる都上りの詩篇です。エルサレムは、イスラエルの人々にとって国の中心であると同時に、精神的なよりどころでもありました。なぜならそこには神殿があり、神殿は神の臨在の象徴だったからです。彼らはそこで神を礼拝し、賛美をささげ、祈りをささげました。エルサレムの重要性は時代が移り変わった今でも変わりません。現在のエルサレムには、いたるところに戦争の傷跡、弾痕が残っています。神の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思う時に、私たちの心を絞めつけます。エルサレムの平和のために祈りましょう。また、神の臨在の象徴という意味で、自分が所属する地方教会のためにも祈るように命じられています。地方教会は世界の希望です。

詩篇 121篇

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)

私たちが必要なとき、神はいつもそこにおられます。いつでも私が呼ぶとき、神は答えられます。神はまどろむことも、眠ることもありません。人間は神にはなれません。すべての必要に人は答えることはできません。人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。ですから、私たちは神に期待する必要があります。自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神を求めることです。詩人は山に向かって目を上げました。目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、

「私の助けはどこからくるのだろうか」

とつぶやかずにいられないような心境だったのでしょうか。そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神に心を向けます。目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはありえません。ならば、神には、その問題をも解決することができます。

詩篇 120篇

「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。」(1節)

詩篇120篇から134篇は、「都上りの歌」と呼ばれ、祭りの時などにエルサレムに向かう中で歌われました。120篇は、神の都から一番離れたところからはじまります。私たちが生きている日常の中で、主の臨在を渇望する姿が記されています。

「私は平和を愛しますが、彼らは戦いを好みます。彼らのどなり声に、私の声もかき消されてしまいます。」(7節LB)

そんな詩人の気持ちが分かるのではないでしょうか。私たちも毎週日曜日、日常から離れて、都上りのようにして神の臨在を求めて教会に集います。そして、神の臨在は確かに教会の中にあります。

「教会は、キリスト様の体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリスト様の霊が満ちあふれる場所です。」(エペソ1:23LB)

詩篇 119篇

「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」(68節)

詩篇119篇は、いろは歌になっています。ヘブル語のアルファベットにそって、神のみことばの大切さを歌います。サタンは「神のみことば」の力を知っているので、私たちが「神のみことば」に対する信頼を揺るがそうとします。「神のみことば」が私たちに信仰を与え、私たちにいのちを与えます。「神のみことば」に力がある理由は、語られる神が今生きておられ、力があるからです。時の権力者の言葉にさえ力があるのです。なおさら、生ける神のことばに力があるのは当然のことと言えます。このお方は、いつくしみ深く、いつくしみを施されるとあります。口語訳では

「あなたは善にして善を行われます。」

新共同訳では

「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」

このお方のみことばを求めようではないでしょうか!

詩篇 118篇

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」(24節)

「設けられた」と訳された言葉は、「作る、行なう」という意味があります。ですから、英語の聖書では、

「主が作られた日」

と訳し、新共同訳聖書では、

「今日こそ主の御業の日。」

と訳しています。どちらも素晴らしい訳だと思います。今日と言う日を、神様は私たちが楽しみ喜ぶために作られたと意識するならば、今日と言う日をどのように過ごすでしょうか?今日という日に、神が何か素晴らしいことを用意されていると、今日と言う日を喜ぶことができるならば、今日と言う一日を最高に生きることができるのではないでしょうか。また、今日は神の御業の日というのはどうでしょうか?今日、神様が素晴らしいことを行なってくださると、信じ、期待し、始めることは聖書的です。

「この日は、主がつくられた!」

「この日は、主の御業の日だ!」

と信仰の宣言をもって一日を始めていこうではないでしょうか!