詩篇 138篇

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。」(3節)

私たちが主を呼び求めるなら、主は私たちの叫びに答え、私たちのたましいに力を与えて強くしてくださいます。LBでは、こう訳しています。

「あなたは必ず私の祈りに答えて、力を与え、励ましてくださいます。」

私たちはどんなに、日々、力が必要なことでしょうか。力は、ただ、主から来ます。ですから、使徒パウロは言いました。

「力を与え、強めてくださる方によって、私は、神に求められるどんなことでもできるからです。」(ピリピ4:13LB)

「私のたましい」と訳された単語は、「私の人生(ライフ・いのち)」とも訳せます。神様は私たちの人生に力を与え、強めてくださるお方です。神のみこころを行うために、神様は私たちに力を与え、強めてくださるお方です。ただ私たちは、主を呼ぶ必要があります。膝をかがめ、力を与えてくださる主を認め、祈り求める姿勢が必要です。

詩篇 137篇

「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。」(5節)

詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。しかし、彼の心はいつもエルサレムにありました。彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?個人的にも神様は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ18:20参照)主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。主日礼拝を大切にしましょう。主は臨んでくださいます。
今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

詩篇 136篇

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(1節)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語の「GOOD」にあてはまる「トーヴ」という言葉です。私たちが信じている神は、「トーヴ」、善い神です。私たちは、主に感謝する理由がたくさんあります。しかし、この詩篇では、くりかえしその理由は、

「その恵みはいつまでも絶えることがありません。」(LB)

と言います。原文を直訳すると、

「なぜならば、主の真実は永遠だから」。

私たちの神は、善い神であり、永遠に真実なお方です。聖書は言います。

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」(エレミヤ31:3)

この「誠実」と訳されたことばが、「恵み」と訳された言葉と同じ言葉です。私達を永遠の愛をもって愛される主は、永遠に真実なお方です。このお方に、共に礼拝を捧げましょう!

詩篇 135篇

「まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。」(5節)

私たちが信じている神は、大いなる方、偉大なる神です。私たちの問題よりも大きな神です。私たちの思いをはるかに超えて偉大なる事をなされる神です。私たちは、自分たちで自分の神を造ってしまっていないでしょうか。人間が作る神は、

「口があってもしゃべれず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、呼吸もしていない」(15-17節LB)神

です。

有限な人間が作った神は、有限な人間が考えられる範囲内でしかない存在です。まことの神は、聖書の神は、私たちを造られた創造主なる神です。無から有を生じさせる神です。たとえ今、暗闇しか見えなくても、「光あれ!」と光を灯すことができる神です。道が見えなくても、道を造ってくださる神です。私たちは、この大いなる方を、大いなる方として、認め、賛美しましょう!

詩篇 134篇

「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。」(2節)

「都上りの歌」は、この詩によって完結します。「主の家」で主に仕え、賛美を捧げることがゴールです。それは、牧師になるという意味ではありません。ウェストミンスター小教理問答書にもあるように、

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

神に栄光を帰す生き方こそゴールです。神に賛美をささげる方法の一つは、手を上げることです。手を上げる理由は、いろいろあります。私たちが両手を上げる時、それは、降参する時です。ですから、絶対者なる神に降参して、すべてを明け渡すことを象徴して手を上げます。私たちの人生には自分の力ではどうしようもないことがたくさんあります。神の前に両手を上げて、「主よ、臨んでください!」と叫ぶ時、実は、私たちは神を神として認めているのです。両手を上げて、神の栄光をあらわし、神を喜ぶことができますように。

詩篇 133篇

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことはなんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(1‐3節)

集まるということは、キリスト教が成立した当初から大切にされてきていることです。信仰は個人的な側面がありますが、集まるということを過小評価するのは聖書的ではありません。私たちがイエス・キリストにあって集まるそのところに、神はとこしえのいのちの祝福を命じられるとあります。ここに、私たちの理解を超えた世界があります。だから聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

詩篇 132篇

「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。」(14,15節)

イエス・キリストが

「ここにわたしは住もう」

とおっしゃられた場所、

それが教会です。

こう言われました。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

二人でも三人でも、イエス・キリストのみ名によって集まるそのただ中に住むことを望まれました。その場所で、私たちを満ち足らせることを決められたのです。毎週日曜日、イエス・キリストのみ名によって集まることには、そのような意味もあります。

「教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」(エペソ1:23LB)

ですから、教会は、この世界の希望です。

詩篇 131篇

「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(2節)

LBでは、

「乳離れした幼児のように、主の前で静かにしています。もう、あれこれ願い事を並べ立てるのはやめました。」

と訳しています。これは、幼児がお母さんの存在が感じられるその所で完全に満足しきっている状況を現しています。私たちもまた、神の臨在の中で、同じように満足することができます。そして、これが神様への完全な信頼へ導きます。実際に、3節で、こうまとめています。

「あなたもまた、今も、これからも、静まって主に信頼しなさい。」(LB)

生ける神の臨在は、神への完全な信頼に私達を導いてくださいます。ですから、今日も、生ける神、主イエス・キリストの臨在を求めましょう。イエス様の臨在の中で、私たちは本当の満足を得ることができるのですから。

詩篇 130篇

「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。」(5節)

主を待ち望む、主のみことばを待つとは、神がされるとおっしゃられたことは、神が行なわれると期待して生きていくということです。神の時に、神の方法で行なわれることを願うことです。私たちが神に、いつ、どうやってと自分のやり方を押し付けることとは対極にあります。神を待ち望んで生きていくならば、失望に終ることはありません。詩人は続けて言います。

「主を信じて希望を持ちなさい。主は恵み深く親切で、両手いっぱいの祝福をかかえて来てくださるからです。」(7節LB)

神の時は必ず訪れます。神は来られます。主を待ち望む者を、あふれるほど祝福するために来られます。最高の日は、まだ、これからです。
今日は主の日。主を待ち望み、共に礼拝を捧げましょう!

詩篇 129篇

「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」(4節)

ユージーン・ピーターソンという学者は「主は、正しくあり」を

「主はそれに甘んじず、私たちから離れない」

と訳しています。そして、こんなことを言っています。

「この詩で強調されていることは、神と私たちとの関係です。神は私たちのためにいつもそこにおられるということです。私たちの人生の中にある神の臨在こそが、私たちが人生を振り返ることができる理由です。」

キリスト者が人生を振り返り、神をほめたたえることができる理由は、神の臨在をそこに認めることができるからだと言います。どんなに辛かったことも耐え忍ぶことができたのは、そこに神がおられたからだと。辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、失望したこと、その所を祝福の場所として見るとき、痛みは詩の一行となります。

※ 明日は、リラの塚田献先生(高田聖書教会牧師)がメッセージです。