詩篇 148篇

「彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。」(13節)

主をほめたたえることは、実は、私たちに命じられていることでもあります。私たちは主を賛美するために存在しています。ですから、主を賛美することを通して、私たちは満たされます。主の御名だけがあがめられることが大切です。主だけがすべての賛美を受けるにふさわしいお方です。教会は、主の御名を何よりも高くするために存在しています。教会の主人公は主であるイエス・キリストです。栄光は主のものです。教会ではいつも、イエス様の素晴らしさが語られるべきです。イエス様以外の誰かがほめたたえられていたら、教会は反省する必要があります。礼拝の時間が終わったとき、「主は素晴らしい!イエス様、感謝します。」と思わず口から出てしまうのが教会のあるべき姿です。

詩篇 147篇

「主は心の打ち砕かれたものをいやし、彼らの傷を包む。」(3節)

心が壊れてしまうかと思うくらい、つらい出来事や悲しい思いを経験することがあると思います。そのようなときを私たちはどのように過ごしているでしょうか。嵐が過ぎ去るのをじっと待つように、心が落ち着きを取り戻すまで時間をかけることができればよいのかもしれませんが、それは根本的な解決にはなりませんし、現実には容赦なくやってくる日々の出来事の中で心の処理をする間もないままに過ごしているのではないでしょうか。そんなときにほんの一言でも

『神様!』

と叫ぶ時間があれば、と思います。私たちの痛みをすべてご存じの主は、私たちがその痛みに気付き、癒しを求めて御前に出ることをずっと待っておられるのです。

詩篇 146篇

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」(5節)

この箇所の前節には、神以外の者に頼ることのむなしさが記されています。

『人の助けをあてにしてはいけません。…人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて無になるのです。』(3,4節LB)

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあると思います。神は私たちが神以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。詩篇の中で、繰り返し神に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかったことが挙げられると思います。失敗しながら、神に正されながら、私たちもまた今日、神にのみ信頼することを学びます。

詩篇 145篇

「代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。」(4節)

LBではこう訳しています。

「それぞれの時代に生きる人々が、その子どもたちに、神のすばらしさを伝えていきますように。」

私たちは次世代に、神の素晴らしさを伝えていく責任があると言います。子どもたちに、神の素晴らしさを伝える責任は、この時代に生きている私たちにあると言うのです。どのようにして次世代に神の素晴らしさを伝えていくことができるのでしょうか。まず第一に、私たちは祈ることができると思います。そして、次世代に伝えていくために、工夫する必要があると思います。自分たちの心地よいスタイルを押し付けるのではなく、次世代に伝えていくことができる方法を考え、挑戦していく必要があります。私たちもまた、そのようにして、前の時代の人たちから伝えていただいたということを心に留めていくことができますように。

詩篇 144篇

「ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。」(1節)

神は私たちを鍛えられるお方です。神は試練や逆境を通し、悲しみや憤りを通し、私たちがそれらを乗り越えていくことを通して信仰を鍛え上げていきます。スポーツや音楽、勉強もそうですが力をつけるためには、一度ではなく何度も何度も、訓練を受けなければなりません。その訓練は容易ではなく、本当に忍耐の必要な作業であることを私たちは皆経験から理解することができると思います。LBでは、後半部分をこう訳しています。

「戦いが起こると、主は、弓を引く私の腕を強めてくださいます。」

私たちは自分の力で乗り越えたと思いやすいのですが、乗り越える力も神が与えてくださった…。

「神様は、あなたがたが誘惑や試練に忍耐強く立ち向かえるように、それから逃れる方法を教えてくださいます。」(1コリント10:13LB)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

詩篇 143篇

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」(10節)

後半部分をLBでは、次のように訳しています。

「恵み深い御霊によって、私を祝福の道へと導いてください。」

イエス・キリストを信じる時、私たちの内に聖霊なる神が内住され、私たちを導いてくださいます。私たちを導いてくださる聖霊が、いつくしみ深く、恵み深い存在であるということを心に留める時、私たちの心は平安に満たされます。神のいつくしみ深さを大袈裟に言うことは不可能です。神はいつくしみ深い方ですから。また、聖霊なる神が導いてくださる平らな地は、祝福の道です。なぜなら、神の私たちに対する計画は

「祝福を与える計画」(エレミヤ29:11LB)

だからです。聖霊は、その著書である聖書をもって私たちを祝福の道へと導かれることも心に留めたいと思います。

詩篇 141篇

「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。」(5節)

現代人は「傷つきやすい」とか「打たれ弱い」とか言われますが、だからこそ今日の箇所を心に留める必要があります。LBでは、次のように訳しています。

「神を敬う人からのきびしい忠告は、私を思う心から出たものです。非難されたように感じても、私にとって薬となるのです。私が彼らの非難を拒絶することがありませんように。」

教えられやすい心をもつということは、私たちの人生の成長のためには不可欠なものです。しかし、どんなに私を思う心から出た忠告であっても、非難されているように感じ、傷つき、倒れてしまう時もあります。ですから、詩人がそうであったように、「拒絶することがありませんように。」と祈ることは、大切なことだと思います。

※ 昨日、誤って142篇を掲載してしまいましたので、今日、141篇を掲載せていただきます。

詩篇 142篇

「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。」(3節)

「神様は知っておられる」という事実は、私たちの日々の歩みに平安を与えてくれます。今も多くの人に愛されている賛美の中に「明日を守られるイエス様」というのがあります。こんな歌詞です。
「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから。明日は、私には分からないけど、明日を守られる、イエスがおられる」
私たちは見えない明日に、様々な不安を抱えて生きています。めまぐるしく変わる社会情勢を伝える新聞やニュースは、私たちの不安を煽るものの、平安を与えてはくれません。「あなたこそ、私の道を知っておられる方」という確信が、私たちの心に平安を与えてくれます。

詩篇 140篇

「私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、わが救いの力よ。」(6,7節)

LBでは、こう訳しています。

「ああ、私の救い主であり盾である主よ、この祈りに耳を傾けてください。」
天地万物を創造された偉大な神を、私の神、私の救い主、私の盾と呼ぶことができることは、なんという特権でしょうか。しかも私たちは、このお方に祈ることができるのです。ダビデの人生はまさに波乱万丈でした。しかし、そんな彼が生き長らえただけでなく、すばらしい人生を送ることができたのは、彼のこの信仰にあったことは明らかだと思います。私たちもダビデにならって、主を私の神、私の救い主、私の盾と呼ぼうではないでしょうか。私たちの主イエスは、そのために私たちのために十字架にかかり死なれ、よみがえられたのですから。「私の主、私の神、私の救い主、私の盾なるイエス様、あなたを呼び求めます。」

詩篇 139篇

「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(15,16節)

この世界に、偶然生まれて来た人はいません。この世界に存在するすべての人は、神様が存在することを望まれたがゆえに存在しています。私たちが母の胎内で構成されている時に、天は喜びに満ちていました。主のみこころのゆえに、一人一人は母の胎内で形成されていきました。目を閉じて、主の御手が、母の胎内で自分を形作られている情景を思い浮かべてください。神様は「しまった」などと言うお方ではありません。私たちを形作り、私たちの存在を喜ぶ主の御顔を思い浮かべることができるでしょうか。主の目には、私たちの存在は、高価で貴いのです。