箴言 3章

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(5,6節)

私たち人間の一番の問題は、自分の悟りに頼ってしまうことです。人生を生きていく中で積み上げてきた悟りを、何世紀にも渡って神のみことばとして様々な文化圏の人にも語り続けている神の御言葉よりも優先してしまうのです。私たちは謙遜になって、主を認める必要があります。自分の歩む道すべてに、主を認める必要があります。自分の知恵を過信せず、主を歓迎し、主の導きを日々求めること、これは、私たちの人生の生命線となります。

「決して自分に頼ってはいけません。何をするにも、主を第一にしなさい。主がどうすればよいか教えてくださり、それを成功させてくださいます。」(LB)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

箴言 2章

「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(21節)

リビングバイブルでは今日の箇所をこのように訳しています。

「人生を思う存分楽しめるのは正しい人だけです。」

神との関係が正しくない時、わたしたちはそれ以外のすべてが物質的にも精神的にもたとえ満たされていても、心のどこかに隙間を感じていると思います。イスラエル人はあいさつに「シャローム」という言葉を使いますが、この言葉には

『神様とあなたのシャローム(関係)は今日いかがですか?』

という意味があるそうです。

『今日、あなたと神様との「シャローム」はいかがですか?』

もし、告白していない罪があるならば、いま神に告白し、赦しをいただいてもう一度神様との正しい関係に入れていただきましょう。もし、赦せない思いを抱えているなら、その人を赦す決心を祈りをもって告白し、神との正しい関係に戻ることができますように。

箴言 1章

「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、」(20節)

メッセージ訳では7節をこのように訳しています。

「神からはじめましょう。学ぶことの第一ステップは、神にひざまずくことです。」

ユージーン・ピーターソンという神学者はこんなことを言っています。

「箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。」

聖書の神は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられます。家族生活を、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱います。ですから、聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。LBでは、「知恵は町の中で叫んでいます」と訳していますが、聖書は生活の現場に関わるものです。

「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。愚かな人は主の教えをさげすみます。」(7,8節LB)

1テサロニケ 5章

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(16-18節)

「神が望んでいる」と訳された単語は、「神のみこころ」と訳すことができます。神の私たちに対するみこころは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することだと聖書は言います。神は、私たちが、どんな状況でも神を信頼して喜ぶことを願われておられます。もちろん、そのためには、絶えず祈る必要があると言います。「それでもなお祈る」という祈りを止めないということです。信じて祈り続けることこそ、神のみこころであるということです。そして、必ず神がすべてのことをプラスにしてくださると信じて、プラスに見えることだけでなく、マイナスに見えることも、すべてのことについて感謝することです。「ハレルヤ、主よ、感謝します。」と感謝することが神のみこころです。

1テサロニケ 4章

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」(3-6節)

神の私たちに対するみこころは、聖くなることだと聖書は言います。この箇所では、自分のからだを聖く保つことを教えています。私たちは自分の心を汚れた思いや欲情のとりこにさせられないように、何を見、何を聞くか、注意をする必要があります。また、「兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。」とあるように、自分の聖さばかり考えて、周りの人を踏みつけないように気をつける必要があります。

1テサロニケ 3章

「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」(3節)

クリスチャンになったら順風満帆の人生が待っているという約束は残念ながらありません。逆に、

「クリスチャンにとって困難とは、神の計画の範囲内の出来事なのです。」(3節LB)

とパウロは言います。困難は想定内であると言うのです。ですから、問題があることが問題ではありません。問題をどう対処するかが問題です。問題は祈るためにあります。パウロは

「昼も夜も熱心に祈っています。」(10節)

と言いますが、私たちが膝を屈め祈り始めるときに、神の偉大な御業を体験します。私たちの神は今も生きて、働かれておられるお方です。私たちの祈りにこたえてくださるお方です。

1テサロニケ 2章

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(13節)

聖書は「神のことば」です。この手紙の著者は使徒パウロですが、聖霊なる神様がパウロに霊感を与えてこの手紙を書かせたと、神のことばとして受け入れることが大切です。そして、この神のことばは、当時のテサロニケの人々のうちに働かれただけでなく、今も、信じる私たちのうちに働いています。LBでは後半部分をこう訳しています。

「事実、この神のことばは、信じる者の生活を一変させるものです。」

神のことばには力があります。ですから、信仰をもって聖書を「神のことば」として読むことに意味があります。神のことばは力があり、信じる私たちのうちに働いているからです。

1テサロニケ 1章

「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」(6節)

テサロニケ人への手紙第一は、パウロが最初に書いた手紙と言われています。テサロニケは、今も繁栄しているギリシャの都市です。使徒17章にテサロニケでのパウロの宣教が描かれています。「ところが、ねたみにかられたユダヤ人は」(使徒17:5)とあるように、嫌がらせもありました。しかしパウロは言います。

「私たちが語った教えは、あなたがたの人生に重大な影響を与えました。聖霊によって、これこそ真理だという確信があなたがたに与えられたからです。また、私たちの生活そのものも、私たちが語ったことばの正しさを実証したと言えるでしょう。こうしてあなたがたも、私たちや主ご自身のあとに続く者となりました。多くの試練や悲しみにもくじけず、聖霊から頂いた喜びにあふれ、私たちの教えを受け入れたからです。」(5,6節LB)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日の栄シャローム福音教会の礼拝は、創立宣教師であるモラー先生ご家族が来られ、分かち合ってくださいます。

詩篇 150篇

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(6節)

賛美の歌を歌うことは、単なる音楽以上の意味があります。主を賛美することは神の命令だからです。つまり、主を賛美することは、単に歌を歌うこと以上の意味があるのです。ですから、最高の賛美を神に捧げる姿勢が大事になってきます。いつも、どうしたら最高の賛美を神に捧げることができるかを考えることは素晴らしいことです。教会として、賛美を充実させるためにいろいろな設備を充実させることも大事なことです。個人として、賛美を神にいつもささげることができるようにいろいろな賛美のCDを聴いたりして新しい賛美を覚えることも大事なことです。最高の賛美を主にささげるためには、受け身の姿勢にならずに、積極的に捧げていく姿勢が大切です。

「生きているものはみな、主に賛美の声を上げなさい。さあ、あなたも神をほめたたえなさい。ハレルヤ。」(LB)

※ 明日の主日礼拝は、栄シャローム福音教会の創立宣教師であるモラー宣教師ご家族が来られます!

詩篇 149篇

「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。」(1節)

個人主義の影響で、集まることが過小評価されることがあります。聖書も一人で読めるし、賛美も一人で歌える。インターネットもあると。信仰は、そもそも個人的なものだと。しかし、聖書はそうは言いません。「聖徒の集まりで主への賛美を」と言います。新共同訳では、「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」と訳しています。地域教会は、あってもなくてもいい存在ではありません。私たちは共に集い、共に主を賛美する共同体を必要としています。地域教会は、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに聖徒とされた集まりであり、まさに、主の慈しみに生きる人の集まりです。ですから、聖書は言います。

「集会から離れたりする人たちにならってはいけません。主が再びおいでになる日は間近なのですから、互いに励まし合っていきましょう。」(ヘブル10:25LB)