ヨハネ 1:29-51

「ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」」(1:46)

ナザレはヘロデ大王の息子ヘロデが再建したセッフォリスというギリシャ・ローマ風の大都市に近い村で、旧約聖書にも、歴史家ヨセフスの記述にも出てこない小さな村でした。それでナタナエルは、ナザレの人が

「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」(45節)

のはずがないと考えました。そんな偏見に凝り固まっていたナタナエルに、ピリポは言いました。

「来て、そして、見なさい。」

イエス様のもとに来て、イエス様を見なければ、体験しなければ、分からない世界があります。今、ナタナエルのように肉眼でイエス様を見ることはできません。しかし、聖霊によって、神の愛を体験することができます。

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)

ヨハネ 1:1-28

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子3しての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

バビロン捕囚期の預言書、エゼキエル43章にこう記されています。

「すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。」(エゼキエル43:2)

新しく再建された神殿に神の栄光が帰還し、主の栄光が神殿に再び満ちる幻が記されています。その後、神がこう言われます。

「わたしは永遠に彼らの中に住む。」(エゼキエル43:9新改訳二〇一七)

つまり、神の御子、イエス・キリストが人となって、この地に生まれてくださったことによって、このエゼキエルの預言は成就したことを、ヨハネは伝えたかったのだと思われます。そして、真の神殿はイエス・キリストであり、恵みとまことに満ちていると。
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

ルカ 24:36-53

「こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(24:46,47)

イエス様は聖書に書いてあることを次のようにまとめました。

「イエス・キリストはあなたのために十字架で死なれた。

そして、死人の中から復活された。

救いの御業は成し遂げられた。

今、悔い改めてイエス・キリストのもとに立ち返る人は、だれでも罪が赦される。

そして、この知らせはあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

聖書を読む時に、私たちはこのメッセージを理解する必要があります。もっとも、イエス様は弟子たちがこのメッセージを理解することができるように、

「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」(45節)

とあります。

「聖霊なる神様、どうか、理解できるように、私たちの心を開いてください。」

ルカ24:1-35

「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」」(24:32)

燃えるような心は、イエス・キリストとの人格的な関係の中で生まれてくるものです。イエス様に対する情熱を失っていると感じている時というのは、たいてい、イエス様との人格的な交わりの時間を失っている時でもあります。私たちはただ消費するためにこの世に生きているわけではありません。神は私たち一人一人を目的をもって造られました。しかし、神の使命に生きていくためには、神からの燃えるような思い、情熱(パッション)が必要です。それは、日々の神との関係から生まれてくるものです。神のみことばである聖書を読んでいる時に、聖霊なる神は語られ、私たちの心はうちに燃えるのです。
「主よ、私たちの心をもう一度燃え上がらせてください。あなたの情熱で私を燃やしてください。」

ルカ 23:26-56

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(23:34)

イエス様は、自分をあざけり、罵る人々を前にして、何も言い返すことはありませんでした。日本的には、「無念」という場面ですが、イエス様は違いました。それでもなお、目の前で罵声を浴びせるその人々を愛し、とりなしの祈りをされたのです。自分に対して、いいことをしてくれる人のために祈ることはそんなに難しいことではありません。しかし、自分を傷つける人のために、裁きが下るようにではなく、とりなしの祈りをするということは、とても難しいことだと思います。しかし、神の霊はそのような人々のために祈るように私たちを導き、力を与えてくださるお方です。なぜなら、まさにイエス様をあざけっていたのは私たちであり、イエス様の恵みのゆえに私たちは今があるからです。

ルカ 22:63-23:25

「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」(23:23)

イエス・キリストの十字架は、多数決によって決められました。ローマ帝国の権威をもってエルサレムの地域を治めていたピラトは、イエス・キリストに罪を認めず、釈放しようとしました。しかし、群集の声に彼は負けたのです。私たちは民主主義を美化しすぎて、その弱点を忘れないように気をつける必要があります。「赤信号、皆で渡れば怖くない」という側面が民主主義にあります。多数がいつも正しいとは限りません。少数意見の方が正しいこともあります。私たちはマス・メディアによって作り出される多数派の意見に振り回されるのではなく、神の御言葉を優先するように気をつける必要があります。残念ながら教会の歴史は人間の主張が勝ち、混乱してきました。教会が人間の声ではなく、神の声が勝つ場所となりますようにお祈りください。

ルカ 22:39-62

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(42節)

イエス様は十字架にかかられる直前、ゲッセマネの園で祈られました。もし十字架以外に人が救われる方法があるならば、それに変更してくださいと。しかし、他に方法はありませんでした。使徒パウロは言います。

「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。」(ガラテヤ5:11)

十字架のつまずきは、十字架以外に救いの道はないということです。人は、自分のやり方でも救われるはずだと考えたいのです。他にも方法があると考えたいのです。しかし、他にも方法があるのならば、神の御子が十字架で苦しみ死ぬ必要はありませんでした。十字架だけが神のもとに行くことができる道です。

ルカ 22:1-38

「イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。」(22:10)

水がめを運んでいる男は、別に、天使が現れて水がめを運ぶように命じられたわけではないと思います。いつものように、自分が与えられた仕事を忠実に行っていただけだと思います。興味深いことは、神がそんな日常の仕事を用いられたということです。水がめを運んでいた人は、そんなことを意識さえしていなかったと思います。神は、私たちが行っている日常の仕事をも用いて神の栄光を現わされます。私たちが今日行う一挙手一投足が、神の栄光のために用いられるかもしれません。そのことを意識して、今日一日、与えられた仕事を誠実に行っていこうではないでしょうか。

ルカ 21:5-38

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(21:34)

日々の生活の中で、イエス様を見失う時、私たちの心はこの世の煩いのために沈み込んでしまうということがあると思います。イエス様から目を離してしまう時、生活の思い煩いで押しつぶされている自分を見ることがあると思います。そんな時に、突然、携挙は起こると言います。それでイエス様は忠告します。

「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(36節)

その日が、いつ起こっても良いように、私たちはいつも目を覚まして祈る姿勢が必要です。思い煩いを主に委ねて、祈り続ける姿勢が必要です。
今日は主の日。目を覚まして、共に、主に礼拝を捧げましょう!

ルカ 20:27-21:4

「また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。」(21:2)

イエス様は

「献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた」(1節・新改訳2017)

とあります。献金はしてもしなくてもいいものではありません。私たちが捧げる姿をイエス様は見ておられます。レプタ銅貨は、最小単位の銅貨で一日分の労賃の一二八分の一に相当します。(レプタ銅貨二枚は128円ぐらい?) ちいろば先生はこんなことを言っています。

「献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくる感謝でなければならない。(中略)この寡婦の献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰の告白であったから尊い。」

「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

とおっしゃられる主は、私たちの信仰をご覧になっています。