ヨハネ 6:25-59

「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)

出エジプト記3章で、神はご自身を、

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出3:14)

という名前で現わされました。

ヨハネ福音書では、このことを意識してイエス様が七つの

『わたしはある』

でご自身を現わされています。その第一番目が

「わたしがいのちのパンです。」

人々はイエス様に「モーセは天からのパンを彼らに与えた」(31節)ように、しるしを与えるように詰め寄りました。イエス様は、そもそも、モーセがマナを与えたわけではなく、神が与えたことを伝えます。そして、マナを食べた人たちも皆、死んだことを伝えます。そして、天からのまことのパンは、イエス様ご自身であることを示されます。イエス様を心に信じ迎える者だけが得ることができる永遠のいのちがしるしです。

ヨハネ 6:1-24

「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」(6:21)

前に進むことができなかった弟子たちの舟にイエス様が近づいてきました。彼らは、最初は恐れました。しかし、イエス様の

「わたしだ。恐れることはない。」

ということばを聞き、喜んでイエス様を舟に迎えました。すると、ほどなく目的の地に着いたと言います。時として、私たちも喜んでイエス様を迎え入れる、歓迎する祈りが必要であると思います。自分の人生に、家族に、教会に、職場に、学校に、イエス様、あなたを歓迎しますと、祈ろうではないでしょうか。

ヨハネ 5:31-47

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(39‐40節)

どんなに聖書を勉強しても、イエス様のもとに行かなければ本当の意味するところを知ることはできません。しかし、多くの聖書学者は、信仰を除外し、学問としてのみ研究しようとします。イエス様について証言している聖書を、イエス様抜きに理解しようとしても、理解することができないことは明らかです。聖書のみことばは、イエス・キリストのもとに来るために記されているのですから、イエス・キリストのもとに行かなければ、聖書が意味していることが分かるはずがありません。へりくだり、祈りつつ、イエス様のもとにいくことから、すべては始まります。

ヨハネ 5:16-30

「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」」(5:17)

イエス様は、父なる神様が今にいたるまで働いておられると言われました。確かに、

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)

とあります。神様の働きは二四時間三六五日です。そして、イエス様も同じように働いていると言います。しかし、私たちは神ではないので、二四時間三六五日働くことは不可能です。ただ、二四時間三六五日働かれている神様を、イエス様を指し示すことはできます。人にはできないことも、神にはできます。神様は今も、働かれています。

ヨハネ 4:43-5:15

「イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」(4:50)

直訳しますと、イエス様は

「あなたの息子は生きます」

と言われました。イエス・キリストはいのちを与えるいのちの主です。ですからイエス様は言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:25)

いのちを得るためには、イエス・キリストのみことばを聞く必要があります。しかし、聞くだけでなく、神のみことばを神の御言葉として信じて生きる必要があります。聖書の言葉は研究するためでなく、信じて従うためにあります。そして、神のみことばに生きる者は、神のいのちを体験します。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 4:27-42

「そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。」(4:41)

きっかけは何であれ、人々はイエス様のことばによって信じます。イエス様のことばには力があるからです。私たちはサマリヤの女のように、一人でも多くの人がイエス様のことばを聞くことができるように伝える必要があります。もちろん、39節にもあるように、サマリヤの女の証でもイエス様を信じた人たちがいました。私たちの証の言葉も神は用いられます。42節にあるように、最終的に、一人一人がイエス様の言葉を自分で聞いたことは注目すべき点だと思います。今、誰でもイエス様のことばを聖書を通して聞くことができます。一人一人が、自分で聖書からイエス様の言葉を聞くことができるように、私たちは伝えていく必要があります。

ヨハネ 4:1-26

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(4:23)

神がまず何よりも求められているのは本物の礼拝者です。キリスト者として、まず何よりも求められていることは本物の礼拝者となることです。本物の礼拝者とは、日曜日だけで話ではありません。なぜなら、神に喜ばれる行為はすべて礼拝だからです。リック・ウォーレン師も、

「日々の務めを神へのささげ物とし、神の臨在を意識してその務めを果たすとき、それは礼拝となるのです。」

と言います。しかし、それは毎週日曜日にもたれる主日礼拝を疎かにしてもいいことにはなりません。週の初めの日を、まず神様に捧げることが私たちの人生を整えます。私たちは、まず何よりも第一に、真の礼拝者になることが求められています。

ヨハネ 3:22-36

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(3:30)

バプテスマのヨハネは人々にイエス様を指し示し、

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(1:29)

と言いました。その結果、人々はヨハネを離れ、イエス様の方に行ってしまいました。ヨハネの弟子たちがそのことをヨハネに告げるとヨハネははっきりと言いました。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

私たちの姿勢も、このバプテスマのヨハネと同じ姿勢であるべきです。イエス・キリストを指し示し、イエス・キリストが盛んになり、自分は衰えなければなりません。イエス・キリストは大きくなり、私は小さくならなければなりません。すべての栄光はイエス様に帰されなければなりません。主の栄光だけが光り、輝きますように。

ヨハネ 3:1-21

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(3:8)

大和カルバリ―チャペルの大川先生は、文語訳の「風は己が好むところに吹く」という訳から、聖霊様が好みがあることに気が付いたと言います。聖霊様は愛し合う場所は好まれるが、裁き合う場所は好まれないと。だから、裁く教会は砂漠になると言います。

「牧師は信徒を裁かない。信徒は牧師を裁かない。信徒同士は裁き合わない。」

これが教会成長の秘訣だと言います。愛し合い、赦し合い、仕え合う教会になるなら、聖霊様が縦横無尽に好んで吹いてくださると言います。聖霊様に好まれる教会になることができますように。

ヨハネ 2:1-25

「しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。」(2:9)

カナの婚礼でぶどう酒がなくなってしまった時、イエス様は水をぶどう酒に変える奇蹟を行いました。この奇跡を間近で体験したのは、イエス様に言われた通りに水をくんだ手伝いの者たちでした。彼らが奇跡をおこなったのではなく、イエス様が奇跡をおこなわれました。しかし、彼らの働きを用いて、イエス様は奇蹟を行われました。イエス様は今も、私たちを用いて奇跡の御業を行おうとされています。私たちが忠実に主のみことばに従う中で、神の奇蹟は行われます。それは、水をくんだしもべだけが知ることができる世界です。