1ペテロ 4:1-19

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(4:7)

聖書が書かれた時代よりも、私たちは終わりに近い時代に生きています。ですから、私たちはますます「分別を持ち、身を慎んで祈り」(LB)に励む姿勢が求められています。祈りのために、「分別をもつこと」と「身を慎むこと」が求められていることは興味深いと思います。特に「身を慎む」と訳された単語は、「正気でいる、しらふでいる、節制している」という意味があります。私たちの周りには、祈りを妨げるたくさんの誘惑があります。祈りの時間を確保するよりも、他の何かに時間を奪われてはいないでしょうか?イエス様の再臨がいつあってもおかしくない今、私たちは真剣に考える必要があります。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(8節)
今日は主の日。神の国と神の義を第一にして、共に主に礼拝を捧げましょう!

1ペテロ 3:1-22

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(3:9)

やられたらやりかえす、それが普通の感情だと思います。しかし、聖書の生き方は違います。私たちは祝福を与えるようにと命じられています。なぜなら、私たちは

「祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

私たちの存在が、神の御国をこの地に現わすものとなるためには、祝福を祈る者となる必要があります。聖書は言います。

「いのちを愛し、幸いせな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」(10‐12節新改訳二〇一七)

私たちは、日々、聖霊の助けを祈り求める必要があります。

1ペテロ 2:4-25

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(4:9)

神が私たちを闇の中から光に召し出されたのは、私たちが神の御業を宣べ伝えるためです。イエス様はご自身を

「世の光」(ヨハネ8:12)

だと言われました。そして、キリストのからだである教会を

「世界の光」(マタイ5:14)

と呼ばれました。教会は、暗闇の中で生きる人たちが、キリストへの道を見出すための光となる必要があります。一人でも多くの人の道を照らす存在となる必要があります。教会の輝きは、あくまでもかしらであるキリストの輝きです。それは私たちのただ中におられるキリストの栄光の臨在です。教会はイエス・キリストの御名を高く掲げるところです。イエス・キリストがまことの世の光です。

1ペテロ 1:1-2:3

「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」(2:3)

二〇一八年もあともう少しで過ぎ去ろうとしています。今年の栄シャロームの年間聖句がちょうどこの箇所でした。主がいつくしみ深い方であることを味わっているならば、主のみことばを慕い求め、成長していく。N・T・ライトという学者がこう言っています。

「クリスチャン生活の中心の一つは、主が恵み深いことを味わうことである。」

「いつくしみ深い」と訳された単語は、「良い、親切な、やさしい、なさけ深い、慈愛深い、思いやりある、恵み深い、」という意味です。つまり、キリスト教の神、聖書の神は、良い、親切な、やさしい、なさけ深い、慈愛深い、思いやりある、恵み深い神であるということです。キリスト者として大事なことの一つは、日々の生活の中で、神を、良い、親切な、やさしい、なさけ深い、慈愛深い、思いやりある、恵み深いお方として、体験することです。

ヤコブ 5:1-20

「そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(5:18)

17節に

「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。」(新改訳二〇一七)

とあるように、この箇所の背景は列王記第一のエリヤの話です。

「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」」(18:42,43)

つまり、「再び祈ると」という時も、予兆が見えるまでエリヤは熱心に祈り続けたということです。私たちは祈っても何も起こらないとすぐあきらめてしまう傾向はないでしょうか。エリヤも私たちと同じ人。私たちもあきらめずに熱心に祈り続けましょう。

ヤコブ 4:1-17

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(4:10)

自分があたかも神のように振る舞うことが、すべての問題の根源であるというのが、この章のメッセージです。わがまま、気ままにやりたいがゆえに、戦いや争いは起こると言うのです。ですから、まず、神の前にへりくだることが大事だと言います。神が良い時に、引き上げてくださるから、自分で自分を引き上げてはいけないと言うのです。引き上げるのは神の役割で、私たちの役割は、へりくだることだと言うのです。膝を屈めた人だけが、立ち上がることができます。神を神として認めることが大切です。神は言われます。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(4:6新改訳二〇一七)

ヤコブ 3:1-18

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(3:17)

「温順」という言葉は、あまり聞かない単語だと思います。国語辞典には、「おとなしくすなおで、人にさからわないこと」とありますが、LBでは、「独善的でなく、人のことばに喜んで耳を傾けます」と訳しています。ですから、「穏やかな従順」、もしくは、「教えられやすい体質」、「扱われやすい性格」のことだと言う事ができると思います。新改訳二〇一七では「協調性」と訳しています。神は私たちに純真、平和、寛容といった品性だけではなく、温順という品性を与えたいと願っています。私たちは学ぼうと思えば、すべての人から、すべての事柄から学ぶことができます。誰からも、何からも学ぶ「温順」の品性をもつことができるのならば、私たちの人生は、必ず豊かになります。

ヤコブ 2:1-26

「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」(2:19)

「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」(2:14)

と聖書は私たちに投げかけます。つまり、聖書が求める信仰とは単に神の存在を認めることではないと言います。実際、悪霊だって神の存在を認めて身震いしていると警告します。神の存在を認めていても、神を神とせずに、自分中心に生きているならば悪霊どもと同じだというのです。聖書が求める信仰は、神を神として認め、従っていくことです。神を神として認めている者らしい行動が求められています。

今日は主の日。神の国と神の義を第一にして、共に主に礼拝を捧げましょう!

ヤコブ 1:1-27

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(1:17)

聖書の神は良い神です。聖書は言います。

「あなたは いつくしみ深く(good) 良くしてくださるお方です」(詩119:68新改訳二〇一七)

神が与えてくださるものもすべて良いもので、完全なものです。さらに、神は変わることがありません。神は過去存在し、未来に統べ治められる神であるだけでなく、今生きておられ、私たちを愛し、導き、守ってくださる、良いものを与えてくださる現在の神です。私たちは神のイメージを聖書的にする必要があります。聖書の神は、よくある神話に出てくるような良いものを奪っていくわがままな存在ではなくて、私たちを愛し、私たちに関心をもち、良いものを与えてくださる神です。この確信に、私たちの心が深く満たされることができますように。

ヘブル 13:1-25

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(13:8)

聖書に描かれているイエス・キリストは、二〇〇〇年前の話だけでなく、今も、そしてこれからも変わりません。イエス・キリストは十字架にかかり死にましたが、三日目に死の力を打ち破り、復活し、今も生きておられるからです。使徒ペテロが、

「このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」(使徒10:38)

と言ったように、イエス・キリストは今も聖書に描かれているように人々の病気をいやし、人々を悪霊から解放されています。イエス・キリストの御業は聖書を通して知ることが出来ます。イエス・キリストは今も変わらずに御業を継続されています。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(5節)

と言われたイエス・キリストは今も、これからも変わりません。