出エジプト 19:1-20:26

「そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。」(20:21)

20章は有名な「十戒」が記されています。神が十戒を与えた時、

「民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。」(18節)

とあるように、それは恐ろしい、震え上がるような光景だったことが想像できます。この箇所で興味深いのは、

「神のおられる暗やみ」

という表現です。私たちは神がおられるところに暗やみはないと考えます。しかし、モーセは暗やみに近づいて行ったとあります。暗やみだからといって、神がそこにおられないわけではありません。イエス様が十字架で死なれた時、全地は暗やみに包まれ、誰もが神の不在を感じました。しかし、神はそこにおられました。真暗闇の中に神はおられ、救いの御業が成し遂げられました。私たちは今暗闇のような十字架から神を見ることができます。

出エジプト 17:1-18:27

「ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。」(17:10)

ヨシュアが戦っていたのですが、丘の頂に登ったモーセたちの祈りが戦いを左右しました。それは、丘に登って祈ればすべてが解決するということではなく、ヨシュアが戦ったように、現実に戦う必要があることも、私たちに示唆しているように思われます。教会は、祈祷会も大切ですし、実践的な働きもする必要があります。モーセはまた、一人で丘に登ったわけではありませんでした。一人で祈ることも大切なことですが、一緒に祈ることも大切なことです。祈祷会は、共に丘に登って、祈るようなものだと思います。私たちの祈りがこの日本を左右するとするならば、私たちは祈りの手を下げずに、支えあって、祈り続ける必要があることがわかるのではないでしょうか。教会は、祈りの勇士をいつも必要としています。神は私たちの祈りを用いられます。

出エジプト 15:1-16:36

「主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。」(16:4)

神が与えてくださった食物は一日分でした。私たちは日ごとに神が与えて下さる食物、みことばをいただく必要があります。「過去にたくさん聖書を読んだから、今はもう毎日読まなくてもいい」ということにはなりません。神は朝ごとに彼らに新鮮な食物を与えてくださいました。同じように神は今日も新鮮なみことばを聖書を通して私たちに与えてくださっているのです。神はこの約束を「エジプトのほうが食べ物があって良かった」と不平不満を言う人々に与えました。彼らは荒野の中で紅海の奇跡も忘れ、乳と蜜の流れる地に対する約束さえも忘れていました。過去を美化しても何も始まりません。毎日、新鮮な主のみことばをいただくことができますように。

出エジプト 13:1-14:31

「主はモーセに仰せられた。『なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」(14:15)

目の前は紅海、後ろからはファラオの軍隊が迫ってくる中で、イスラエルの民は混乱し、モーセを責めます。LBではこの箇所をこう訳しています。

「主はモーセに命じました。『いつまでもわたしに叫び求めていないで、人々を前進させなさい。」

もちろん、祈ることは大事なことです。しかし、神は同時に行動を起こすように言われます。私たちはまず祈るべきです。しかしそこで終わらずに、神のみことばに生きることに挑戦していくべきです。みことばに従って前進する時、目の前の水は分かれて道ができます。「神様が何もしてくれない」とただ嘆いていないでしょうか?聖書を読み、聖書のみことばに生きる時、目の前の水は分かれます。私たちはみことばによって前進していかなければなりません。

出エジプト 11:1-12:51

「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」(12:13)

イエス・キリストの十字架の御業の背景には、この出エジプトの話があります。イエス・キリストが血を流して十字架で死ななければならなかった理由がここにあります。血を見て過ぎ越す(pass over)という、ここから「過ぎ越し」の祭りは来ています。最後の晩餐は、このことを象徴する「過ぎ越し」の食事です。この箇所を理解しなければ、ヨハネ3:16

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

は分かりません。イエス・キリストが十字架の上で血を流されたがゆえに、イエス・キリストを信じる者に「滅びのわざわいは起こらない」。

出エジプト 9:1-10:29

「わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。」(9:14)

神がエジプトに災害を与えた理由の一つは、

「この世界にわたし以外に神がいないことを教えるためだ」(LB)

と聖書は言います。パロは言いました。

「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。」(出5:2)

パロは、この十の災害を通して、まことの神を知ります。そして、私たちもこの出エジプト記の内容を知ることによってまことの神を知らされます。箴言9:10にこういう箇所があります。

「知恵の基本は、主を恐れ、大切にすることです。物事がよくわかるようになりたければ、まず神を知りなさい。」(LB)

私たちは今、イエス・キリストを通してこの真理を知ることができます。

出エジプト 6:13-8:32

「呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。」(8:18)

神がエジプトに下された十の災害は、エジプトの神々に対する裁きでもありました。最初の災害は、ナイル川を血に変えるというものでした。エジプトの人々にとってナイル川は、彼らに祝福をもたらす彼らが拝んでいた神でもありました。そのナイル川が血となるということは、イスラエルの神が、エジプトの神々を裁かれたという意味でもありました。血と蛙の災いまでは、

「エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。」(7:22)

とあります。しかし、三つ目のぶよの災いの時、呪法師たちも、

「これは神の指です。」(8:19)

と降参します。しかしパロ(ファラオ)の心はかたくなであったため、さらなる災いが待っていました。聖書の神、YHWHは王の王、主の主なる神です。

今日は主の日。神々を無とする偉大なる神に、共に礼拝を捧げましょう!

出エジプト 4:1-6:12

「主は彼に仰せられた。『あなたの手にあるそれは何か。』彼は答えた。『杖です。』」(4:2)

神は私たちの手にすでにもっているものを用いて御業をなさるお方です。モーセの手には杖がありました。神はその杖を用いられました。ペテロは漁師でした。彼の手には網がありました。神は彼の網を用いて人間をとる漁師とされました。パウロは学者でした。彼の手にはペンがありました。神は彼のペンを用いてたくさんの手紙を書き残させました。神は私たちに

「あなたの手にあるそれは何か」

と尋ねています。私たちの手には何があるでしょうか。たとえそれが自分で努力して体得した技術だったとしても、それは神の賜物です。なぜなら、努力できる環境も神が与えてくださったものだからです。ですから、神は私たちに問われます。

「あなたの手にあるそれは何か?」

「主よ、示してください。私の手にあるものを。そして、私を用いてください。」

出エジプト 1:1-3:22

「しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。」(1:17)

聖書は、

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)

と言います。イエス様もこう言われました。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

助産婦たちは、からだを殺すことができるエジプトの王ではなく、たましいもからだも滅ぼすことのできる神を恐れました。その結果、

「助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(21節)

とあります。神への健康な恐れは、人に対する不健康な恐れを克服させてくださいます。神を正しく恐れることから健全な社会が生み出されていくと言っても過言ではないと思います。

ヨブ記 40:3-42:17

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(42:5,6)

ヨブは、単なる耳学問ではなく、神を現実として体験しました。ヨブの苦難に対する神からの答えはありませんでしたが、ヨブは満足しました。知性偏重主義の社会に聖書は挑戦します。人は知性以上の存在であり、神を体験することが大切であると。ここで「悔い改め」と訳された言語は、一般的に「悔い改め」と訳す言葉とは違う言葉が使われています。罪を悔い改めるという意味ではないので、岩波訳では、「考え直します」と訳しています。ヨブは罪人だったという意味ではありません。「義人が苦しむことがある」ということがヨブ記のテーマだからです。しかし、その苦難は祝福のはじまりでもありました。聖書は言います。

「ヨブの晩年は、初めよりずっと祝福されました。」(12節LB)