士師記 9:1-57

「今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。」(9:16)

この箇所から私たちが学ぶことが出来ることの一つは、誰を自分たちの指導者に選ぶかという選ぶ側の責任です。三節を見ると、そもそも「身内の者」ということで人々はアビメレクを支持したことが記されています。つまり、公正さよりも関係を重視しました。そして、それが悲劇を生みました。どういう人物か知らないのに、知り合いの紹介だから、身内だからと支持してしまい、その結果もたらされてきた悲劇は、歴史の中で何度も繰り返されています。アビメレクの場合、野望の問題がありました。彼は結局、一人の女性が投げたひき臼の上石にあたって死んでしまいます。

士師記 7:8-8:35

「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。『あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。』しかしギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。』」(8:22,23)

イスラエルの人々はギデオンをイスラエルの国の王としようとしました。しかも、世襲制度的な指導体制まで進言しました。しかし、ギデオンは言いました。

「私は王にはならない。息子もそうだ。主があなたがたを治める王だ。」(LB)

人はすぐ人をあがめてしまう傾向があります。しかし、ギデオンは、自分に依存するのではなく神なる主に依存するように言いました。バプテスマのヨハネも同じように、キリストを指し示して、言いました。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)

これが主の僕の姿です。

士師記 4:1-5:31

「そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。」(4:4,5)

神が用いられた士師の一人は、女性でした。男性優位という当時の社会において、神があえて女性を用いられたことには意味があると思います。神は男性も用いられますし、同じように女性も用いられます。聖書にはっきりと書いてあります。

「神にはえこひいきなどはないからです。」(ローマ2:11)

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

主はその御目をもって全地を隅々まで見渡して、性別に関係なく、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださいます。

士師記 2:6-3:31

「イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。」(3:9)

士師記には一つのサイクルがあります。まず「背信」。

「イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れ」(7節)。

その結果、彼らは蒔いた種を刈り取り、他国の支配に屈します。何年間かの苦しみの後、人々は神に叫び求めます。神は彼らの叫びを聞かれ、士師を起こし、彼らを救います。(この箇所ではオテニエル)

「しかし、さばきつかさ(士師)が死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」(2:19)

このサイクルが繰り返されます。

解放されるために聖霊が必要です。(ローマ8:2参照)

聖霊を求めましょう。

今日は主の日です。共に主に礼拝を捧げましょう!

士師記 1:1-2:5

「その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」(2:10)

出エジプトという神の偉大な救い、解放を知らない世代が起こったと言います。知らないと言っても、親やいろいろな人から、知識としては話を聞いていたと思います。ですから問題は、彼らはそれらの話を単なる昔話、彼らとは直接関係がない物語としてしか聞いていなかったということだと思われます。N・T・ライト師はこう言います。

「『聖書の権威』に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中に、共同体としても、個人としても、自分たちを浸すことである。」

「聖書は、私たちの目の前にある務めを把握させ、その務めに私たちを取りかからせ、それを達成させるためにある。」

主を知らない世代とならないように、聖書をしっかり学び、次世代に教えることができますように。

ヨシュア記 23:1-24:33

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15節)

人は自分が選んだ神に仕えます。「神」という言葉で呼ばなくても、自分が選んだ神を主人として仕えます。快楽を自分の神とする人は、人生の基準が、自分に快楽をもたらすものかどうかで判断します。自分の行動基準も、快楽をもたらすものが中心になります。そして自分の快楽を得るために働きます。人は結局、自分が選んだ神を主人として仕えているのです。もっとも、人は誰を神として仕えるかを選ぶことができます。イエス・キリストを自分の神として選び、仕えることもできます。ただ、私たちは自分で決断しなければなりません。主に仕えることを選ぶことができますように。

ヨシュア記 21:20-22:34

「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(21:45)

神はイスラエルの人々との約束を守られました。約束どおり、彼らに約束の地を与え、勝利を与え、安住を与えられました。もちろん、イスラエルの人々もそのために様々な努力や犠牲を払いました。しかし、自分たちの努力によって成し遂げたと記録されていないところに意味があると思います。服部師はこう言っています。

「神の約束のゆえに、苦難や試練を経験したり、そのような苦難や試練の歴史を聞いてきた者にとっては、いつの時代にも、その約束の成就を見ることは感激以外の何ものでもない!」

「すべての良いことは」とあるように、神は真実なお方であり、悪いことではなく、良いことを実現してくださるお方です。

「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

ヨシュア記 19:1-21:19

「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。」(20:2,3)

神は計画的でなく(事故など)、誤って人を殺してしまった場合、復讐を避けて逃げ込むことができる逃れの町を作るように命じました。つまり人間というのは、どんなに気をつけていても、過ちを犯す可能性がある存在であると認められているのです。失敗は終わりではありません。誰もがその可能性をもっています。ですから、過ちを犯した時、私たちはキリストの内に逃れることができます。キリストこそ私たちの逃れの町です。キリストは失敗をしたペテロのところに来て、もう一度チャンスを与えました。キリストは失敗したからと言って、私たちを切り捨てることはありません。

ヨシュア 17:1-18:28

「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。『主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。』ヨシュアは彼らに言った。『もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。』」(17:14,15)

ヨセフ族に与えられた相続地は、他のどの部族に与えられた相続地よりも広大でした。それでも彼らは不満でした。それに対してヨシュアは言います。自分たちは数が多いなどと神の恵みを誇り、不満を持つのではなく、数が多いのだから自分たちで開拓すればよいと。受け身にならずに、自発的に行動すべきだと。成功しない人の特徴は、誰かのせいにすることと言われます。してもらうことでなく出来ることを考えられますように。

ヨシュア記 15:1-16:10

「彼女は言った。『私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。』そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」(15:19)

カレブの娘アクサは、結婚の祝いとして、水の泉、湧き水を求めました。彼女は、そこで生活するには、何よりも水が必要であることをよく理解していたからだと思います。そして、彼女は求めたものを得ました。私たちもこの世で生きていくためにはいのちの泉が必要です。私たちもアクサがカレブに求めたように、父なる神にいのちの泉を求めることが大事です。イエス様はおっしゃられました。

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。・・・天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9,13)