2サムエル 14:1-15:12

「王は言った。「あれは自分の家に引きこもっていなければならない。私の顔を見ることはならぬ。」それでアブシャロムは家に引きこもり、王の顔を見なかった。」(14:24)

ダビデ王は、アムノン王子を殺したアブシャロム王子を赦すことができませんでした。エルサレムに戻ってくることを許可したものの、顔は見たくないと、親子の関係を修復することを願いませんでした。その結果、この後、アブシャロム王子の謀反が起こります。ちいろば先生こと榎本師はこう言います。

「神による和解でなければそこからは真実の交わりは回復されるものではない。」

残念ながら、ダビデ王もアブシャロム王子も神の御前に悔い改めたとはありません。本当の和解はただ、イエス・キリストから来ます。聖霊の力を求める必要があります。
今日は主の日。ペンテコステの日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル記 13:1-39

「アムノンには、ダビデの兄弟シムアの子でヨナダブという名の友人がいた。ヨナダブは非常に悪賢い男であった。」(13:3)

アムノン王子の根本的な問題は、悪賢い友人の助言を求めたことでした。詩篇1:1には、

「幸いなことよ。悪しき人々の助言を拒む人…」(英訳)

とあります。悪賢い助言は拒む必要があります。誰の助言に耳を傾けるかが人生を左右します。聖書は言います。

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32:8)

私たちは、誰かではなく、神のみことば、聖書のみことばに耳を傾けていく必要があります。残念ながらアムノン王子が自分の悩みを神に祈り求め、神のことばを聞こうとしたという記事はありません。友の言葉が神の言葉より影響力があるならば気をつける必要があります。なぜなら、友も人であり、神ではないからです。

2サムエル記 11:1-12:31

「年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」(11:1)

戦いがある時、ダビデはいつも自分が先頭に立って出て行きました。しかし今、彼は大成功を収め、自分が出て行く必要もないと、エルサレムに残りました。確かに、ダビデが行かなくても勝利を取ることは可能かもしれません、しかし神はダビデに先頭に立って行くように王として召したのです。ところがダビデは自分がいなくても大丈夫と、神の召しを軽視したため、この後大きな罪を犯してしまいます。自分がいなくても何とかなると、神の働きに参加することを軽視してしまう時がもっとも危険な時です。神はご自分の益のために召しているのではなく、私たちの益のために、神の働きに参加するように招いているからです。

2サムエル記 9:1-10:19

「ダビデは言った。『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。』」(9:7)

ダビデがメフィボシェテを探して呼び出した理由は、彼をいつも王の食卓に招くためでした。神は私たちのためにいつも食卓を整えていてくださるお方です。詩篇23:5,6には、こう書いてあります。

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

神は祝福したいのです。どんな問題の中にあっても、それを乗り越える力を与えるために、みことばの食事を整えています。神は日々聖霊の油を注いで、力を与えようとしています。私たちは王の食卓に招かれています。

2サムエル記 7:1-8:18

「ダビデ王は、それをもまた、彼の征服したすべての国々から取って聖別する銀や金とともに主に聖別してささげた。」(8:11)

ダビデは神のために神殿を建てることは許可されませんでしたが、神殿を建てるための準備をし続けました。ダビデは、「自分が建てることができないなら、自分は何もしない」とは言いませんでした。ダビデは自分の思い通りに神が用いてくれないからと怒りませんでした。彼は無責任に誰かがしてくれるとも言いません。自分の許された範囲で、一生懸命主に仕えました。事実、ダビデが準備したから、その子、ソロモンは神殿を建てることができました。そのようにすべての偉大な働きには表と裏があります。偉大な宣教の働きの陰には、祈りをもって宣教師を支えて宣教の働きに携わった無名の人たちがいます。宣教師も宣教を支える人も、主の目には同じように重要な宣教の働きに携わる人々です。

2サムエル記 5:6-6:23

「それで、ダビデはバアル・ペラツィムに行き、そこで彼らを打った。そして言った。『主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた。』それゆえ彼は、その場所の名をバアル・ペラツィムと呼んだ。」(5:20)

バアル・ペラツィムは「打ち破られる主」という意味があります。私たちの神は、打ち破られる、ブレイク・スルーの主です。目の前にどんな壁が立ちはだかっていても、神は打破してくださいます。神は、今日、私たちの直面している問題の壁を打ち破りたいと願っておられます。ダビデの問題を打ち破った神は、今も変わらずに、同じように私たちの問題を打ち破ってくださいます。ダビデがこの打ち破られる主を体験することができたのは、彼が神に伺うこと、つまり、祈ることを大切にしたからです。実際、この大成功を収めた後も、彼は自分の裁量ではなく、再度主に伺って行動しています。ここに鍵があります。

2サムエル 3:22-5:5

「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」(4:9)

ダビデは、彼のいのちを救い出してくださったのは神だと言うことを理解していました。だから、神に対する聖なる畏れによって生きてました。ここまで導いてくださった神は、今も生きておられて、これからも導いてくださることを確信していたからです。使徒パウロも同じことを告白しています。

「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(Ⅱコリント1:9,10)今の自分があるのは神の恵みであることを理解し、今も生きて働かれる神を畏れて歩むことができますように。

2サムエル 2:8-3:21

「これらはヘブロンでダビデに生まれた子どもである。」(3:6)

聖書には、はっきりと

「多くの妻を持ってはならない。」(申17:17)

と、一夫多妻を否定しています。しかし、ダビデは多くの妻をもってしまい、それが多くの問題を彼の人生に引き起こしました。しかし、聖書はダビデの失敗を隠すことなく、そのまま記録しています。私たちは、神が完全な人しか用いることができないと思います。しかしダビデという人物は本当に不完全な人でした。神に対する心がある限り、神は不完全な人を用いてくださいます。この事実は私たちに人に対する健康な見方を与えてくれます。人は私たちを失望させることがあります。人は不完全であり、失敗することがあります。英雄視されるダビデも、不完全な人間でした。ですから、私たちは人ではなく、イエス様に焦点を合わせなければなりません。イエス様だけが完全なお方だからです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル記 1:1-2:7

「この後、ダビデは主に伺って言った。『ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか。』すると主は彼に、『上って行け。』と仰せられた。ダビデが、『どこへ上るのでしょうか。』と聞くと、主は、『ヘブロンへ。』と仰せられた。」(2:1)

ダビデは神に伺うことなくペリシテ人の地に行ってしまった結果、多くの苦い経験をしました。今回は、神に伺ってから、ヘブロンへ向かいました。この時からダビデの人生は開けていきます。私たちは自分の目にいい道を選ぶのではなく、神に伺いながら進むことが大事です。神は私たちに将来と希望を与えたいからです。アルファのニッキー先生は神の導きを知ることが出来る5つの方法があると言います。

一、聖書の命令。

二、聖霊の強いうながし(祈る時に語られる。強い願い。特別な方法)。

三、常識。

四、クリスチャンの助言。

五、状況的なしるし。

祈りつつ、これらの五つを見ていくことが助けとなります。

1サムエル記 29:1-31:13

「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(30:6)

ダビデは人間的な思いで、ペリシテ人に身を委ねてしまい、イスラエルに敵対して戦いに出なくてはいけないというところまで追い込まれてしまいました。神の憐れみによって、彼らはイスラエルの敵とならずにすみましたが、自分たちの町はアマレク人の略奪にあってしまいました。彼の仲間たちはそんなダビデに愛想をつかし、彼を殺そうとしました。まさに、どん底をダビデは経験しました。しかし、ダビデはこのどん底の状態で神を見上げることができ、神からの力と導きを受けることができました。神は時として、私たちがどん底の状態に陥ることを許されます。私たちが神以外の何かに依存しようとする時、神は私たちが神以上に信頼しているものを取り除かれます。「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」(口語訳)主によらなければ、私たちはどん底から立ち上がることはできません。