エレミヤ書 50:11-51:14

「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主から、決して見捨てられない。彼らの国は、イスラエルの聖なる方にそむいた罪に満ちていたが、」(51:5)

バビロン帝国に対する裁きの宣告の途中で、突然、イスラエルの民に言及がなされます。

「わたしは、イスラエルとユダを見捨てたわけではなく、依然として彼らの神である。」(LB)

バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、神様に見捨てられたと感じていたと思います。彼らは自分たちの罪が原因であることを認識していたと思います。しかし、聖書の神は、それでも見捨てない神です。聖書は言います。

「主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。」(ヘブル13:5新改訳二〇一七)たとえ自分の愚かさのゆえに見捨てられたように感じる状況に立たされていても、主は見捨ててはいません。主に立ち返りましょう。

エレミヤ書 49:7-50:10

「わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。」(50:6)

イスラエルの人々が迷子になった理由は、7節にあるように、

「彼らが、正しい牧場である主、彼らの先祖の望みであった主に、罪を犯したため」

です。しかし、同時に、彼らが牧者として信頼していた指導者たちが迷わせたと聖書は言います。

つまり、私たちの人生の牧者が誰であるかはとても重要ということです。

「わたしは良い牧者です。」(ヨハネ10:11)

と言われるイエス・キリストが牧者であるならば心配する必要はありません。主イエス・キリストが牧者であるならば、乏しいことはありません。

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩篇23:2,3)

エレミヤ書 48:1-49:6

「主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。」(48:10)

今日の箇所は強烈な箇所です。LBでは、こう訳しています。

「わたしが与えた仕事に手をつけない者は、のろわれよ。」

主がすべてのキリスト者に与えた仕事は世界宣教です。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)

私たちは、すべての人に福音を宣べ伝えるという仕事があります。福音宣教をおろそかにするならば、教会の意義は失われていきます。礼拝も主が私たちに与えた仕事です。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ4:23)

福音宣教と礼拝がおろそかになるような教会行事があるならば見直す必要があります。福音宣教と霊とまことによる礼拝を捧げることをおろそかにしてはいけません。

エレミヤ書46:1-47:7

「パロがまだガザを打たないうちに、ペリシテ人について、預言者エレミヤにあった主のことば。」(47:1)

ユダの残された民は、どこの国へ行こう、どの国に頼ろうかと探していました。かつては敵であったペリシテ人のもとに助けを求めていこうとしたときに、神はエレミヤを通して、ペリシテも滅びる運命にあることを告げます。ペリシテ人はパレスチナの語源となった民族です。彼らは長く地中海世界において影響力を持っていました。神は私たちが神以外の何かに頼ろうとするとき、その寄りかかろうとしたものを取られることがあります。神だけを頼るように仕向けることがあります。私たちは寄りかかれるような誰かを求めていないでしょうか。頼れるような何かを求めていないでしょうか。そのような人生はもろく、崩れやすいものです。ただ、神を求め、私たちのために命さえも捨ててくださったキリストを信頼し、聖霊の導きと助けに頼って生きていくことができますように。

エレミヤ書 43:1-45:5

「すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げて言った。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない。』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。」(43:2)

人々がエレミヤの言葉を聞けなかった理由は、エレミヤが預言者であることを認めていなかったからです。彼らは自分たちが思うように語らないエレミヤに、偽りのことばを語っていると言いました。使徒パウロはこんなことを言っています。

「あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」(1テサロニケ2:13新改訳二〇一七)

礼拝説教をそのように受け入れることができますように。
今日は、主の日。共に、礼拝を捧げましょう。

エレミヤ書 40:7-42:22

「しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。『そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。』」(40:16)

私たちはすべての人が自分に対して好意を持っていると考えたいと思います。ゲダルヤもそうでした。彼はヨハナンがせっかくイシュマエルが彼の命を狙っていることを告げたのに、ヨハナンの忠告を受け入れようとしませんでした。聖書はとても現実的です。私たちが生きているこの世界は天国ではありません。使徒パウロもこのような言い方をしています。

「できる限り、あらゆる人と仲よくしなさい。」(ローマ12:18LB)

すべての人が自分に好意を当然もってくれると考えるのは非現実的です。2・6・2と言われますが、自分に好意を持ってくれる人が2人いれば、自分を嫌う人が2人くらいはいるものです。そのことを受け止めて、「できる限り」仲良くする姿勢が大切です。

エレミヤ書 38:1-40:6

「わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。―主の御告げ。―」(39:18)

「信頼」は聖書のキーワードの一つです。エレミヤを助けたエベデ・メレクは、神に信頼したから、エルサレムが陥落した時に助け出されました。聖書ははっきりと言います。

「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:11)

イエス・キリストに信頼するか、それとも、信頼しないかが私たちの永遠を左右します。私たちは生きていく中で、信頼を裏切られる経験をしたりして、誰かを信頼すること自体が難しく感じるようになります。しかし、イエス・キリストは私たちを決して裏切りません。私たちを見放したり、見捨てたりすることはありません。私たちのために十字架で死んでくださった信頼できるお方です。

エレミヤ書 35:1-37:21

「エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。」(36:23)

エホヤキム王は神のみことばを畏れることもなく、自分の力で神の働きを消し去ることができるかのように、エレミヤに与えられた神のことばを書いた巻物を焼き捨てました。彼は聞くことよりも滅ぼすことを選びました。神のみことばである聖書を、いつの時代にも滅ぼそうとする人たちがいます。十八世紀の哲学者ボルテールは、「百年もたてば、人々は聖書について何も聞かなくなるだろう」と聖書を攻撃しました。(彼の住んでいた家は、後に聖書協会の施設となったそうです。)エホヤキム王がどんなに聞かず、恐れず、悔い改めることがなくても、神のみことばを止めることはできませんでした。聖書のみことばをどんなに否定し、滅ぼそうとしても、神の御業を止めることは誰にもできません。

エレミヤ書 32:26-34:22

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(33:3)

『わたしを呼べ』なんと力強い言葉でしょうか。私たちは無意識のうちに、誰かを頼りたいと願っていると思います。それが伴侶であったり、政府であったり、友人であったり・・・。そして相手が自分が願っていたように答えてくれないと分ると、怒りや失望に変わります。本当の意味で、私たちが呼び求めることができる、唯一のお方は神だけです。神だけが私たちの本当の必要に答えることができるからです。多くの人は一番確実なお方を素通りし、不確実な存在をよりどころとしようとして不安を抱え、平安を失っています。ちょうどイスラエルの民が神を無視し、偶像に走ったのと似ていると思います。神に不可能なことはありません。神を呼ぶ者に、神は必ず答えてくださいます。

エレミヤ書 31:15-32:25

「あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を彼らに授けられました。彼らは、そこに行って、これを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じた事を何一つ行なわなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいに会わせなさいました。」(32:22‐23)

律法は神との契約関係にあるということです。神は契約通りイスラエルの人々のために素晴らしい場所を与えられました。しかしイスラエルの民は契約を無視し、契約に明記された通りのわざわいを受けました。イエス・キリストにあって私たちは今新しい契約の中に生きています。それは、律法がなくなったということではなく、律法を完成してくださったイエス・キリストの中に生きるということです。

「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」(ロマ8:2新改訳二〇一七)