エゼキエル書 1:1-3:27

「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」(1:28)

預言者エゼキエルは主の栄光を見、主の声を聞きました。使徒パウロもダマスコ途上で同じ体験をしました。

「道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。」(使徒9:3,4)

パウロは、エゼキエルの話を知っていたはずです。ですから、

「なぜわたしを迫害するのか。」

という言葉にとても驚いたと思います。彼は神のためにキリスト教徒を迫害していたのです。それで彼は尋ねます。

「主よ。あなたはどなたですか。」

すると、

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)。

イエス・キリストは、三位一体の神です。

今日は、主の日。共に、礼拝を捧げましょう。
※ 本日のSSCの第三礼拝はお休みです。

ヨエル書 2:18-3:21

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(2:25)

神は私たちが失ったものを償ってくださる、回復してくださるお方です。ヨブは多くのものを失いましたが、最後にはこう記されています。

「主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」(ヨブ42:10口語訳)

また、イザヤ書にはこう記されています。

「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(イザヤ40:2)

私たちの人生には様々な試練が存在します。しかし、その試練の先には、試練の倍の祝福が待っています。神は失われた年月を償われるだけでなく、その倍の祝福を与えてくださいます。主は祝福を倍返しされる神です。

「だから、わたしたちは落胆しない。」(Ⅱコリ4:16)

ヨエル書 1:1-2:17

「長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」(1:2,3)

ヨエルは当時のイスラエルの国がどんなに混乱している状態にあるかを指摘します。そして、彼らが直面していたイナゴの大群における飢饉には、意味があることを伝え、悔い改めを呼びかけています。それだけではなくヨエルは、これらの問題を後の世代にも語り伝えるように命じます。私たちは成功を語り伝えたいと思います。しかし聖書は、正直に私たちの失敗を、そして失敗から学んだことを、次世代に伝えていくことが大事だというのです。まず、何をするべきかははっきりしています。

「あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。」(14節)

私たちは教会に集まり、共に主に祈り叫ぶことが求められています。

オバデヤ書 1-21

「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(15)

オバデヤ書は、ヤコブの兄エサウの子孫エドムに対する預言です。エドムはイスラエルの国と親戚関係があったのにも関わらず、イスラエルの危機の時に、助けるどころかそれに乗じて略奪に加わりました。この書はそのことに対する裁きの預言が記されています。神は言われます。

「人にしたとおりのことが自分に返ってくる。」(LB)

「因果応報」ですべてを片付けることはできませんが、聖書はこの霊的法則を記しています。

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラ6:7共)

イエス様もこう教えられました。

「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイ5:7)

ヤコブも言います。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13共)

哀歌 3:40-5:22

「助けを求めたが、むなしかった。私たちは見張り所で、見張った。救いをもたらさない国の来るのを。」(4:17)

イスラエルの国は、問題が起こるとエジプトの国を頼る傾向がありました。しかし、

「私たちは、同盟国の助けを待っていましたが、来ませんでした。最もあてにしていた国さえ、少しも動こうとしませんでした。」(LB)

残念ながら、そのような事態が、この地上ではよく起こります。一番助けて欲しいときに、助けてもらえないことがあります。(逆も事実で、助けることができないということもあると思います。)それは、他人だけでなく、自分自身にも言えることだと思います。私たちの肉の力も、「救いをもたらさない国」の一つでしかありません。私たちを救うことができるのは、救いの神、イエス・キリストだけです。神は、

「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答える」(エレミヤ33:3)

とおっしゃられます。主に助けを求めましょう。

哀歌 2:7-3:39

「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」(19節)

バングラデシュの村の幼子たちが、栄養失調のような体型で微笑みかけたその姿を忘れることができません。今こそ教会は、大声で叫び、心を水のように主の前に注ぎだし、祈る時だと思います。今、祈らなければ、いつ、祈るのでしょうか。私たちは特に子どもたちのため、次世代のために祈る必要があります。物質的な飢えも問題ですが、これほどの情報化社会にあってなお、霊的飢餓状態に陥っている現状が日本にあります。神の御言葉を食すことが出来なければ、霊的飢えのために弱り果ててしまいます。ジャンクフードのような言葉ではなく、健全な神のみことばを食することができますように。

哀歌 1:1-2:6

「ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。」(1:1)

哀歌の作者はエレミヤだと考えられています。この書は嘆き、悲しみで満ちています。それはエレミヤが、40年間神の御言葉や警告を語り続けたにもかかわらず、イスラエルの人々がその行いを変えず、結果として、かつては多くの人々で賑わっていたエルサレムの神殿が破壊され、バビロニアに人々が捕囚されていく様子を目の当たりにしなければならなかった彼の心の叫びが記されているからです。御言葉に真剣に耳を傾ける大切さを、エレミヤのこの嘆きから今一度考えるべきであると思います。イスラエルの人々の問題は、神のことばを軽視したことにありました。私たちは神のみことばを軽視しないように気を付ける必要があります。

ハバクク書 1:1-3:19

「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。」(1:2)
神の沈黙ほど辛いことはありません。祈ってても、聞かれていない、何も変わらないと感じる時ほどしんどいことはありません。ハバククも同じことを体験しました。イスラエルの民は神に背を向け、国は混乱していました。ハバククは神にどうして何もしてくださらないのですかと訴えます。すると神は答えられます。
「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。」(1:5)
神は働かれていると言いました。神が自分を気にも留められていないと感じる時は、感情ではなく、みことばに立ち、神が気にかけておられることを思いだしてください。神は確かに働かれています。今日は、主の日。共に、礼拝を捧げましょう。

エレミヤ書 52:1‐34

「ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。」(52:31-32)

何度にもわたる預言者エレミヤの警告に耳を傾けることがなかったユダの国は滅ぼされ、エルサレムは陥落し、人々はバビロンに捕囚されました。まさに、当然の結果が訪れました。しかし、エレミヤ書はここで終わりません。手遅れと思う状況の中で、エホヤキン王にあわれみの手が差しのべられたことを伝えます。つまり、ダビデ王朝が途切れたわけではなく、神のダビデに対する契約が終わったわけではなかったことを伺わせます。ダビデの家系はこの後、イエス・キリストへと続きます。神の信実は絶えることはありません。

エレミヤ書 51:15-64

「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」(51:15)

厳しい預言の合間に、預言者が神の偉大さについて語っていることは、注目に値すると思います。エレミヤは神の偉大さを語った後に、こう付け加えます。

「神に比べたら、人間は愚かな獣で、一かけらの知恵もありません。」(17節LB)

人間の根本的な問題の一つは、神よりも自分の方がすぐれていると思い込んでいるところです。アダムとエバの問題もここにありました。彼らへの誘惑の言葉は、

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)

でした。しかし、人間は神のようになることはありません。神は神であり、人は人です。私たちは偉大なる神の御前にへりくだる必要があります。