ダニエル 9:20-11:1

「すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」」(10:18,19)

ダニエルだけでなく、聖書に出てくる神が用いた人は皆、モーセもエレミヤもイザヤも、自分はふさわしくないと感じました。しかし神はいつも、私たちに使命を与えるだけでなく、それを成し遂げることができるように私たちに触れ、力づけて、整えてくださるお方です。神が私たちを整える方法の一つは、私たちにみことばを語ることです。ダニエルは神のみことばによって、奮い立つことができました。神は今日、私たちに言われます。
「神はあなたを非常に愛しておられる。だから、恐れるな。気を落ちつけて、しっかりするのだ。」(LB)

ダニエル 8:15-9:19

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(9:18)

ダニエル書9章のダニエルの祈りは、私たちの祈りの模範の一つです。彼が自分の国のため、同胞のために祈る姿勢を、私たちは学ぶ必要があると思います。彼は私たちが神に祈り求めるのは、

「私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです」

と告白します。LBではこう訳しています。

「助けていただくに値する者だからお願いしているのではありません。私たちのどうしようもない罪にもかかわらず、あなたはあわれみに満ちたお方なので、お願いしているのです。」

私たちはただ、イエス・キリストの真実のゆえに、イエスの御名の中で祈ります。

ダニエル書 7:1-8:14

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(7:13,14)

「年を経た方」とは父なる神、「人の子のような方」とは子なる神、イエス・キリストです。ですから、イエス・キリストが雲に乗って来られ、父なる神のもとに進み、永遠の主権が与えられ、神の御国が確立するという預言です。イエス様も十字架にかかられる直前に、大祭司に言いました。

「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(マタイ26:64)

キリストの十字架と復活と昇天によって、この預言は成就しました。

今日は主の日。アドベント一週目。共に礼拝を捧げましょう。

ダニエル書 5:17-6:28

「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」(6:10)

「習慣は第二の天性」と言われますが、ダニエルは、いつも神の前に祈り、感謝していました。この時、ダニエルは八十八歳ぐらいだったと言われます。彼は、何があっても、この習慣を止めることはしませんでした。なぜなら神との関係こそが、彼の人生の強さであり、安定の基だったからです。たとえそれが死を意味しても、彼はこの習慣を隠すことさえありませんでした。ある牧師は、一日十五分で人生は変わると言います。五分聖書を読み、五分読んだ箇所を黙想し、五分祈る。このような聖なる習慣を身につけることは、私たちの力となります。この後、ダニエルはライオンの穴に投げ込まれますが、奇跡的な守りを体験します。聖書はその理由をこう記しています。

「彼が神に信頼していたからである。」(23節)

ダニエル 4:19-5:16

「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」(4:34)

ネブカデネザル王は一時期、理性を失っていました。彼が

「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(30節)

と傲慢になっていたところ、神は彼から理性を取り去り、彼は動物のようになってしまいました。一定の期間が終わり、彼が天に目を上げ、神がすべてを治めているという事実を認識した時、理性が戻りました。もし、私たちが自分が成し遂げたこと、自分に栄光を帰そうとするならば、それらが私たちをおかしくさせます。しかし、もし、私たちの目を天に向け、ただ神を礼拝し、賛美するならば、理性は戻ってきます。

ダニエル 3:13-4:18

「そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」」(3:24,25)

神は時として私たちを火のような試練の中を通ることを許されます。ペテロの手紙第一には

「あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」(4:12新改訳二〇一七)

とあります。しかし、火は私たちを縛る縄を焼くだけです。もっとも素晴らしい祝福は第四の者の存在です。受肉前のキリストだと言われます。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が共におられます。

ダニエル 2:24-3:12

「しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。」(2:28)

ダニエルは自分ではなく、神がネブカデネザル王に示されたことを明確にします。ダニエルは、この機会を利用して自分の王国を築こうとはしませんでした。また、夢のポイントも、人間の王国は衰退し、神の王国は永遠に確立するということでした。確かに、歴史を見ても、すべての人間の王国は衰退しました。ローマ帝国も、徳川幕府も、そして、自分の王国も…。神の王国のために成されたものだけが永遠に続きます。私たちは、自分がしていることではなく、神がされていることに視点を変える必要があります。ネブカデネザルの夢は、人間がすることではなく、神がされることに中心を動かすことを目的としています。

ダニエル 1:1-2:23

「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」(1:17)

少年たちに与えられた能力が、どこから来たかを覚えることは重要なことだと思います。私たちの能力は、すべて神から来ます。身につけるための努力をする必要がないという意味ではありません。しかし、身につけることができるその環境でさえも神が与えてくださったと考えるならば、あたかも自分の力だけで成し遂げたかのように傲慢にはなれません。(神が与えてくださった環境を感謝し、神の栄光のためにその能力を身につけるために努力することは当然大切なことです。)もし、神からの賜物だと認識することができれば、神にお返しするという意識は当然のことと思います。与えられた能力を、神の栄光のために用いているでしょうか。すべての栄光を神に捧げるため、神は私たちに能力を与えてくださいます。

エゼキエル 47:1-48:35

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」(47:9)

この川の源泉は1節、

「水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。」

つまり、神の臨在から流れてくる水だと言います。イエス様はこう言いました。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:38,39)

神の臨在はキリストを信じる者たちが集まって礼拝を捧げるその場所に現されます。主は賛美を住まいとされます。ですから賛美が満ち溢れるそのただ中で、いのちの川、聖霊の川が流れます。賛美の時間はただ歌を歌っているわけではありません。

エゼキエル書 45:1-46:24

「主の前にはいって来るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通ってはいって来る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分のはいって来た門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。」(46:9)

「はいってきた道と、出て行く道とは違うのである。帰るときは、来たときとは違う道から帰ることである。礼拝することは神に出会うことであるから、人生観や、世界観が変わってこなければならない。神によって変えられるのである。」(榎本保郎師)

つまり、礼拝するとは、キリストに出会うことであり、来た時と帰る時は変えられるものだというのです。

「しかし、だれでも罪に背を向け、主のほうに向く時、その覆いは取り除かれます。」

「そして、主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、私たちはますます主に似た者にされていくのです。」(Ⅱコリ3:16,18LB)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。