箴言 1:20-33

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」(1:23)

ここで言う「わたし」は、20節にあるように、人格化した知恵のことです。知恵を拒み、知恵を無視するなら、その報いを受けると言います。

「わたしの忠告を聞かずに、やりたいことをやっていたからだ。」(30節LB)

と言われてしまいます。もちろん、新約聖書では、

「キリストは神の力、神の知恵なのです。」(1コリント1:24)

とあるように、イエス・キリストが神の知恵です。イエス・キリストに聞き従うなら、神の霊は注がれます。ですから、私たちはまず、「主を恐れることを選」(29節)ぶことから始めなければなりません。主を恐れることが知恵の始まりです。
今日は主の日。共に主のみことばに耳を傾け、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 8:1-9

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(8:5)

8篇の最初の行と最後の行は、同じ文章です。

「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

「私たちの主、主よ」というのは面白い表現です。実は後半の「主」は、神の名、「ヤハウェ」が使われています。「私たちの主、ヤハウェ」となります。「私たちの主」は肩書きで、「私たちを治める方、統治者」という意味があります。浅野師は、「劣るもの」と訳されているヘブル語は、「後に立つ」と解釈することができ、神は先に立ち、人間はそのうしろに立つ、神は導き、人はそれに従うという意味となると言います。確かに、これが本来の人間の姿でもあります。神を神として認め、神の導きに従う・・・ここに、人間としての栄光、誉れがあります。しかし、人は罪を犯してしまったがゆえに、この栄光を失ってしまいました。(ローマ3:23参照)

詩篇 7:10-17

「私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。」(7:10)

詩人は困難の中にあって、自分の盾が神にあることを悟りました。使徒パウロもこのように言っています。

「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」(エペソ6:16)

もし、私たちが誘惑に落ちてしまい、悔い改めないならば、「良くないことを考え、陰謀を企てては、偽りと背信に走ります。そのような者たちは、自らしかけた罠に落ち込みます。」(14、15節LB)悪魔は私たちが誘惑に落ちるように不信仰の火矢を放っています。私たちは信仰の大盾が必要です。

「神は私の盾。私を守ってくださるお方です。神は真実で正しい人を救います。」(LB)

詩篇 7:1-9

「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。」(7:1)

ダビデは自分の中傷者を

「獅子」(2節)

のようだと言います。興味深いことに、使徒ペテロもこう言います。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)

どうやって悪魔は私たちを食い尽くそうとするのでしょうか?

私たちを責める事によってです。

「あなたは失敗者だ」

「それでもクリスチャン?」

「あなたは間違っている」

と、私たちの耳にささやきます。

これらは悪魔の言葉です。

私たちは、悪魔の火矢のように、日々の生活の中で非難の矢、中傷の矢を受けることがあります。だから、日々、聖書のみことばに触れる必要があります。神のことばに耳を傾ける必要があります。

箴言 1:8-19

「わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。」(1:10)

イエス様はこの世と隔離して世捨て人になるようにとは言われませんでした。私たちは「この世の中」で地の塩、世の光となるようにと言われました。ただ、「この世の中」で生きていても、「この世の者」となってはいけないと言います。私たちはこの世の誘惑に対抗するように召されています。箴言はこのバランスをどのように達成できるか実践的なアドバイスを与えています。今日の箇所は、悪を行う人と一緒にその悪の道を歩いてはいけない(15節)と警告しています。つまり、誰かがやっているからと言って、一緒になってやってはいけないということです。どんなに惑わされても、それに従ってはいけないと。「みんなやっている」かどうかは重要ではありません。神のみこころかどうかが重要です。

詩篇 6:1-10

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(6:6)

スポルジョン師は、

「涙は、液体の祈りで解釈はいらない」

と言います。新共同訳では次のように訳しています。

「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」

感情的だと問題視する人もいるかもしれません。しかし、このような涙の祈りはイエス様ご自身もなされた、聖書的な方法です。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

もちろん、涙を流せばいいという意味ではありません。イスラエルに「泣き屋」がいましたが、人はうわべを見ますが神は心を見ます。大事なのは私たちの内側であり、私たちの砕かれた心を神は軽視することはありません。

詩篇 5:1-12

「私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」(5:2)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」(3節)

とありますので、この詩は「朝の祈り」と一般的に言われます。一日のはじめを、祈りをもってはじめるという習慣を身に着けることができれば大きな力となります。出エジプト16:21にこういう箇所があります。

「彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。」

これは、荒野で天から与えられたマナのことです。マナは取り置くことはできず、毎朝集めなければなりませんでした。同じように私たちも、朝ごとに祈り、聖書のみことばをいただく必要があります。昨日祈ったから大丈夫と言うことにはなりません。ただ私たちが祈る方は王なる神であることは忘れてはいけません。主権は王なる神にあります。

詩篇 4:1-8

「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」(4:7)

私たちはしばしば喜びや平安を間違った場所に探し求めてしまいます。神は言われます。

「人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。」(2節)

私たちはお金こそ、成功こそ答えだと思います。しかし、それは空しいものであり、まやかしもの、偽りだと言います。神だけが喜びと平安の源だと聖書は言います。神が与える喜びは、この世の繁栄に勝ると言います。この世の繁栄が私たちを平安に導くとは限りません。事実、金持ちが平安とは限りません。私たちに本当の平安を与えるのは神様の臨在だけです。ですから詩人は歌います。

「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。」(6節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

箴言 1:1-7

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(1:7)

メッセージ訳では7節をこのように訳しています。

「神からはじめましょう。学ぶことの第一ステップは、神にひざまずくことです。」

ユージーン・ピーターソンという神学者はこんなことを言っています。

「箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。」

聖書の神は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられます。家族生活を、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱います。ですから、聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。

「知恵は町の中で叫んでいます」(20節LB)

とありますが、聖書は生活の現場に関わるものです。

「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。愚かな人は主の教えをさげすみます。」(7節LB)

詩篇 3:1-8

「しかし、主よ、あなたこそ私の周りを囲む盾、私の栄光、私の頭を上げる方。」(3:3)

詩人が感じたように、時として私たちは右も左も敵ばかりのように感じてしまう時があります。神を信じて何になるのかと嘲られてしまう時、私たちの頭はうな垂れてしまいます。しかし、神は私たちのため息を聞いておられます。私たちの涙を数えておられます。神は私たちの頭を高く持ち上げてくださるお方です。神は神の時に、最善の時に、すべてを美しくされます。なぜなら、

「本物の救いは神から来ます。」(8節MSG)

ですから、聖書は私たちに命じます。

「地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」(コロサイ3:2LB)

「天上のこと」とは、死後の世界と言うよりも、「神の国」、神の統治を意識するということです。神のみこころで心を満たすということです。なぜなら、最終的に、神のみこころがなされるからです。