詩篇 20:1-9

「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(20:7)

この箇所の「誇る」とは、「…に確信を持つ、信頼して任せる」という意味です。神の御名を誇るとは、神の御名に確信を持つということです。神の御名は、神のご性質を示します。神の御名を知るとは、神を知ることです。神の御名を誇るとは、神を、「いと高き神、ご覧になる神、全能の神、義なる主、勝利の主、ここにおられる主、癒し主、羊飼いなる主、備え主、聖め主、万軍の主、平和の主」と、確信することです。困難な時、神よりも人からの助けを期待し、思うような助けを得れないと苛立っていないでしょうか?祈って神の勧めを待ち望むよりも、人の助言に走っていないでしょうか?神がどういうお方であるか、確信しているでしょうか。
「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」(箴言18:10)

詩篇 19:7-14

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」(19:7)

聖書のみことばとは何かがここで並べられています。

聖書のみことばは第一に「完全」です。聖書以外の場所に人は神のことばを求めるべきではありません。

第二に、聖書のみことばは「たましいを生き返らせ」ます。聖書のみことばは、人生を立て直す力があります。

第三に、聖書のみことばは「確か」です。確実で、信頼できます。

第四に、聖書のみことばは私たちを「賢く」します。箴言にこういう箇所があります。「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。」(箴言1:7一・七LB)

聖書のみことばには力があります。なぜならば、今生きておられる神のみことばだからです。主を信じ、主を大切にする人は、主のことばである聖書のみことばに耳を傾けます。

箴言 4:10-19

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(4:18)

この世界には二つの道があります。悪者の道と義人の道です。聖書が言う悪者は神を認めない人です。神を認めないで生きていく道は「暗やみのよう」(19節)です。そしてその暗闇は増していきます。ですから聖書は言います。「悪者のまねをしてはいけません。」(14節LB)神を認めない生き方をまねするならば、人生はおかしくなります。しかし、神を認めて生きる人の人生は、輝きが増していきます。なぜならば、「神は正しい人の道を優しく見守り、真昼のように明るく照らしてくださいます。」(18節LB)
ですから、はっきりしています。

「正しい生活をするのが、一番賢い生き方です。この大切な真理を学びなさい。」(11節LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 19:1-6

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(19:1)

聖書の神は現実の神であるがゆえ、その存在を、自然の中に見ることができます。神がこの自然世界を造られたがゆえに、創造された神の知恵の何かが、造られた世界を通じて知られます。人間の理性、世界の秩序だけでなく、世界の美にもそれを見ることができます。ジョナサン・エドワーズは、「我々が花咲く草原や穏やかなそよ風に喜びを感じるとき」に私たちが経験する美の認識は、神の聖性の暗示だと言います。ですから、実は、神を知る方法が二つあります。一つは聖書を通して。これを特別啓示と言います。もう一つは、自然の秩序を通して。これを自然啓示、一般啓示と言います。自然啓示は明白ではないので、いつも、特別啓示である聖書に立ち返る必要があります。「世界の秩序とあらゆる被造物において明らかに示されている神の知識は、御言葉においていっそう明確に、親しく説明されている。」(カルヴァン)

詩篇 18:43-50

「主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」(18:50)

「油注がれた者」の意味の一つは王ですが、キリストを信じる者も油注がれた者です。(2コリント1:21参照)ですから、ダビデとそのすえと同じように、神は「とこしえに恵みを施されます。」
「恵み」と訳された単語(ヘセド)は、「恵み」以上の意味があります。「忠実」「真実」「慈しみ」「好意」を意味します。神はとこしえに「真実」(ヘセド)です。使徒パウロはこのように言っています。

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(2テモテ2:13)

ですから、このお方を自分の羊飼いとして生きるならば乏しいことはありません。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵み(ヘセド)とが、私を追って来るでしょう。」(詩篇23:6)

詩篇 18:37-42

「あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、」(18:39)

神は戦いのために、私たちに力を帯びさせてくださる、「頑丈なよろいを着させて」(LB)てくださるお方です。もっとも、私たちの戦いは、

「血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)

着させてくださるのは神ですが、それを身に着けるかどうかは私たちの選択に任されています。聖書は言います。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(6:11,13)

箴言 4:1-9

「父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。」(4:4)

子供というのは、親が命令するのは、自分の楽しみを奪うためだと思いやすい傾向があると思います。しかし、実際は、親は子の人生を思うがゆえに、いろいろとしつけるのです。神の命令も同じです。「私の命令を守って、生きよ」とあるように、私たちが生き生きと生きることが出来るように、神は私たちに命令を与えられます。神の命令は、私たちを縛るのではなく、私たちを自由にしてくれるのです。スポーツは、ルールを守ってしなければ、楽しむことはできません。サッカーをしているのに、急にラグビーのようにボールをもって走り出す子がいたら、全然楽しくなくなってしまいます。同じように、神の命令は、私たちが人生をより楽しむためにあるのです。「よく聞きなさい。私のことばと教えを大切にすれば、一生幸せに暮らせる。」(LB)

詩篇 18:25-36

「あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(18:29)

ダビデは自分の力でどんな敵にも立ち向かい、どんな困難も乗り越えられると歌っているわけではありません。「神によって」とあるように、あくまでも神の力によることを彼は自覚していました。だからダビデは言います。

「神は私に力をみなぎらせ、行く先々で私を守ってくださいます。」(32節LB)

力は神から来ます。神は力を与えるだけでなく、それを用いることができるように訓練される神です。だからダビデは言います。

「戦いに備えて私を鍛え」(34節LB)。

聖書は言います。

「私たちは真に生きることを学ぶために、喜んで神の訓練を受けるべきではないでしょうか。」(ヘブル12:9LB)

詩篇 18:16-24

「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。」(18:19)

この詩を書いたダビデは、人生の中でたくさんの戦いを経験しました。彼は敵に囲まれるような人生でした。そしてダビデは、「彼らは私より強かった」(17節)と言います。しかし、ダビデは言います。「主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。」敵はダビデよりも強かったけれども、神は彼らよりももっと強いお方であり、ダビデを救い出されたと。そして、広い所、「安全な場所」(LB)へと連れ出してくださったと。もし、今、広い所にいるならば、神の助けを覚え、感謝しましょう。しかし、もし、そうでないならば、主に助けを求めましょう。自分にはどうすることもできない問題であっても、神にできないことはありません。ダビデを救い出された神は今も生きておられ、イエス・キリストを信じる者を救い出してくださいます。

詩篇 18:7-15

「御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と火の炭。主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。」(18:12,13)

「御前の輝き」とは、まさに神の畏れ多い臨在のことです。神の臨在から、突き抜けて来るもの、それは神の御声だと言います。私たちは、神のみ言葉である聖書を通して、神が御声を発せられるのを聴くことができます。聖書の神は御声を発せられるお方、私たちに語りかけてくださる神です。詩人はまた、「主がお怒りになったのだ。」(7節)と神の御怒りに言及します。神の御怒りはこの世の悪に対するものです。この世に蔓延する不正義、人身売買や虐待に対して、怒りを感じないのであれば愛を失っています。悪に対する怒りは善の本質の一つです。神の御怒りは、愛の別表現です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。