詩篇145:13-21

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられます。」(145:18)

「まことをもって」は「アーメン」をもってと訳すこともできます。ですから、メッセージ訳ではこう訳しています。

「神はそこにおられる。祈るすべての人のために。本気で祈っているすべての人のために。」

祈りは単なる気休めではありません。本気で祈る、その祈りに神が答えてくださることを私たちは体験します。後のユダヤ教においてこの詩は日毎の賛美の祈りに用いられたと言います。タルムードには、この詩を日に三度口にする者には、来るべき世界で神の子となることが約束されています。興味深いことは、主の祈りと通ずる面がこの詩にあります。「聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。」(21節)は「御名があがめられますように」(原意は「御名を聖とする」)と重なります。日々「主の祈り」を本気で祈ることにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

詩篇145:8-13

「主はすべてのものにいつくしみ深くそのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。」(145:9)

この詩篇はヘブル語のアルファベット順に始まる「アルファベット詩」で、ある学者は「主の栄光のABC」と表現しています。主なる神は天地万物を創造された神であり、造られたすべての被造物の上に憐れみを注がれるお方です。「いつくしみ深く」と訳された単語は「良い」(トーヴ)です。主なる神は、すべてに対して「良い」と言います。私たちは今、世界的な感染爆発(パンデミック)の中にいますが、この真理を手放してはいけないと思います。たとえ、今、そう感じられなくても神はすべてに対して良いお方です。

万事は益となります。

マイナスはプラスになります。

神は良い神であり、良いことを行われる神です。

そして、恵み深い神の思いやり、憐れみは、全ての被造物に注がれています。

今日はクリスマス礼拝。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇145:1-7

「代は代へとあなたのみわざをほめ歌いあなたの大能のわざを告げ知らせます。」(145:4)

LBではこう訳しています。

「それぞれの時代に生きる人々が、その子どもたちに、神のすばらしさを伝えていきますように。」

私たちは次世代に、神の素晴らしさを伝えていく責任があると言います。子どもたちに、神の素晴らしさを伝える責任は、この時代に生きている私たちにあると言うのです。どのようにして次世代に神の素晴らしさを伝えていくことができるのでしょうか。まず第一に、私たちは祈ることができると思います。そして、次世代に伝えていくために、工夫する必要があると思います。自分たちの心地よいスタイルを押し付けるのではなく、次世代に伝えていくことができる方法を考え、挑戦していく必要があります。私たちもまた、そのようにして、前の時代の人たちから伝えていただいたということを心に留めていくことができますように。

箴言30:24-33

「もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、企んだりしたら、手を口に当てよ。」(30:32)

協会共同訳では「愚かにも自ら高ぶっているなら、手を口に当てよ。」と訳していますが、自らを高めることは愚かなことであり、自らを高めるために愚かなことを行うことは、まさに、「乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。」(33節)ことです。私たちは、自らを高めることに心を向けるのではなく、イエス・キリストを高めることに心を向ける必要があります。いつもイエス・キリストの御名が高められるように献身していく時に、何か良いものがそこから生まれてきます。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:6)高ぶる思いがあるなら、手を口に当て、静まり、へりくだる時も大切です。

詩篇144:9-15

「幸いなことよ。主を自らの神とする民は。」(144:15)

「ヤハウェを神とする民は幸いだ」というのは、祝福の宣言です。人は結局のところ、何かを「神」として生きています。現代は「神」という言葉は使いませんが、ある人は「お金」を神とし、ある人は「快楽」を神とし、その神々に自分を捧げて仕えています。自分が何に一番時間と心を費やし、何に一番影響を受けているかを吟味すれば、自分が仕えている「神」がなんであるかが自ずと分かります。ヤハウェなる主を神として生きている人は祝福されている、幸いだと聖書は言います。もちろん、この詩は個人というよりも「民」とあるように共同体が意識されています。個人個人がヤハウェを神とするのですが、共同体として、ヤハウェを神とするところに大きな祝福があります。地域教会という共同体は当然ですが、私たちが国家的なリバイバルを祈り求める理由がここにあります。

詩篇144:1-8

「わが岩なる主がほめたたえられますように。戦いのために私の手を戦のために私の指を鍛えられる方が。」(144:1)

神は私たちを鍛えられるお方です。神は試練や逆境を通し、悲しみや憤りを通し、私たちがそれらを乗り越えていくことを通して信仰を鍛え上げていきます。スポーツや音楽、勉強もそうですが力をつけるためには、一度ではなく何度も何度も、訓練を受けなければなりません。その訓練は容易ではなく、本当に忍耐の必要な作業であることを私たちは皆経験から理解することができると思います。LBでは、後半部分をこう訳しています。

「戦いが起こると、主は、弓を引く私の腕を強めてくださいます。」

私たちは自分の力で乗り越えたと思いやすいのですが、乗り越える力も神が与えてくださった…。

「神様は、あなたがたが誘惑や試練に忍耐強く立ち向かえるように、それから逃れる方法を教えてくださいます。」(1コリント10:13LB)

詩篇143:1-12

「あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。」(143:10)

後半部分をLBでは、次のように訳しています。

「恵み深い御霊によって、私を祝福の道へと導いてください。」

イエス・キリストを信じる時、私たちの内に聖霊なる神が内住され、私たちを導いてくださいます。私たちを導いてくださる聖霊が、いつくしみ深く、恵み深い存在であるということを心に留める時、私たちの心は平安に満たされます。神のいつくしみ深さを大袈裟に言うことは不可能です。神はいつくしみ深い方ですから。また、聖霊なる神が導いてくださる平らな地は、祝福の道です。なぜなら、神の私たちに対する計画は「祝福を与える計画」(エレミヤ29:11LB)だからです。聖霊はその著書である聖書をもって私たちを祝福の道へと導かれることも心に留めたいと思います。

箴言30:11-23

「自分をきよいと見るが、汚物を洗い落とさない世代。」(30:12)

私たちは罪をきよめられる必要があります。聖書は言います。

「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(1ヨハネ1:8)

この箇所では、いくつかの罪に言及がされます。

親を呪う罪(11、17節)。

高ぶりの罪、「お高くとまって、他のみんなより自分がより良いと考えてはいけない」(13節MSG)。

貧しい者を顧みない罪(14節)。

性的な罪を犯していても「「私は不法を行わなかった」と言う。」(20節)。

私たちは、罪は罪として認識し、罪を告白し、悔い改める必要があります。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

詩篇142:1-7

「私の霊が私のうちで衰え果てたときにもあなたは私の道をよく知っておられます。」(142:3)

「神は知ってる」という事実は、私たちの日々の歩みに平安を与えてくれます。今も多くの人に愛されている賛美の中に「明日を守られるイエス様」という歌があります。

「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから。明日は、私には分からないけど、明日を守られる、イエスがおられる。」

私たちは見えない明日に、様々な不安を抱えて生きています。コロナ禍はいつ収束するのか?めまぐるしく変わる社会情勢を伝える新聞やニュースは、私たちの不安を煽るものの、平安を与えてはくれません。「あなたは私の道をよく知っておられます」という確信が、私たちの心に平安を与えてくれます。

今日はアドベント三週目。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げ 
ましょう。

詩篇141:1-10

「正しい人が真実の愛をもって私を打ち、頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように。私の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。」(141:5)

現代人は「傷つきやすい」とか「打たれ弱い」とか言われますが、だからこそ今日の箇所を心に留める必要があります。LBでは次のように訳しています。
「神を敬う人からのきびしい忠告は、私を思う心から出たものです。非難されたように感じても、私にとって薬となるのです。私が彼らの非難を拒絶することがありませんように。」教えられやすい心をもつということは、私たちの人生の成長のためには不可欠なものです。しかし、どんなに私を思う心から出た忠告であっても、非難されているように感じ、傷つき、倒れてしまう時もあります。ですから、詩人がそうであったように、「拒絶することがありませんように。」と祈ることは、大切なことです。