詩篇150:1-6

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(150:6)

賛美の歌を歌うことは、単なる音楽以上の意味があります。主を賛美することは神の命令だからです。つまり、主を賛美することは、単に歌を歌うこと以上の意味があるのです。ですから、最高の賛美を神に捧げる姿勢が大事になってきます。いつも、どうしたら最高の賛美を神に捧げることができるかを考えることは素晴らしいことです。教会として、賛美を充実させるためにいろいろな設備を充実させたり、訓練することも大事なことです。個人として、賛美を神にいつもささげることができるように賛美を聴き、新しい賛美を覚えることも大事なことです。最高の賛美を主にささげるためには、受け身の姿勢にならずに、積極的に捧げていく姿勢が大切です。

「生きているものはみな、主に賛美の声を上げなさい。さあ、あなたも神をほめたたえなさい。ハレルヤ。」(LB)

今年はいろんなことがありました。新しい年もよろしくお願いします。

箴言 31:21-31

「麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」(31:30)

ヘブル語で知恵は女性形が使用されています。それで箴言31章に出てくる女性は知恵を擬人化したものと考えられます。

「主を恐れることは知識の初め。」(1:7)

「主を恐れることは知恵の初め」(9:10)

とあるように、「主を恐れること」と「知恵」は同義語です。「知恵」は誠実な妻であり、この世界を家とし、私たちの日常の生活で働くことを欲っしています。「知恵は自分の家を建て」(9:1)ます。知恵は言います。

「だから、わたしのことばに聞き従いなさい。わたしの命令を守ることが幸福のかぎなのだから。」(8:32LB)

「わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」(8:17)と言いますが、どこを探せばいいのでしょうか。聖書は言います。

「キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3)

詩篇149:1-9

「ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで主への賛美を。」(149:1)

個人主義の影響で、集まることが過小評価されることがあります。聖書も一人で読めるし、賛美も一人で歌える、インターネットもあると。信仰はそもそも個人的なものだと。しかし、聖書はそうは言いません。「敬虔な者たちの集まりで主への賛美を。」と言います。地域教会はあってもなくてもいい存在ではありません。私たちは共に集い、共に主を賛美する共同体を必要としています。地域教会は、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに聖徒とされた集まりであり、主の信実に生きる敬虔な者たちの集まりです。聖書は言います。「集会から離れたりする人たちにならってはいけません。主が再びおいでになる日は間近なのですから、互いに励まし合っていきましょう。」(ヘブル10:25LB)一日も早くコロナが収束し、共に集まり、主に礼拝を捧げられますように。

詩篇148:7-14

「彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。」(148:13)

私たちは主を賛美するために存在しています。主を賛美することを通して私たちは満たされます。「みことばを行う激しい風よ。」(8節)とあるように、激しい試練の中で神のみこころが行われることがあります。ですから、私たちはどんな時でも賛美することを学ぶ必要があります。主の御名だけがあがめられることが大切です。主だけがすべての賛美を受けるにふさわしいお方です。教会は主の御名を何よりも高くするために存在しています。教会の主人公は主であるイエス・キリストです。栄光は主のものです。教会はいつもイエス様の素晴らしさが語られる場所です。イエス様以外の誰かがほめたたえられていたら、教会は反省する必要があります。礼拝の時間が終わったとき、「主は素晴らしい!イエス様、感謝します。」と思わず口から出てしまうのが教会のあるべき姿です。

詩篇148:1-6

「主の御名をほめたたえよ。主が命じてそれらは創造されたのだ。」(148:5)

聖書の神は天地万物を創造された神であり、そのゆえに、この詩篇は天地万物に主なる神を賛美するように命じています。「主が命じて」とありますが、詩篇33:9にもこうあります。

「主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは立つ。」

主なる神だけが無から有を生じさせることができるお方です。主なる神はそのみことばを持って無から有を創造されました。聖書は言います。

「神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。」(創世記1:3)

主なる神は今も聖書の御言葉をもって語られています。聖書の御言葉は今も生きていて力があります。なぜなら、聖書の御言葉の本当の著者である主なる神は今も生きておられるからです。私たちを造られたお方、主なる神に共に礼拝を捧げましょう。

今日は、今年最後の主の日です。

箴言31:10-20

「しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」(31:10)

ある学者(ダグラス・スチュアート)はこのように言います。

品性の立派な妻の極端な献身の描写は、いろは歌の順序の結果です。各節はヘブル語アルファベットの順番の文字で始まっていて、ヘブル語で覚えやすく、耳に心地よいのですが、しかしその結果、厳格な批評家や字義的に読む人には、どんな女性もついていけない生活パターンに見えるようなものになっています。

ここでは、人が家族と社会にもたらす喜びを誇張によって強調しています。新約聖書の光に照らすならば、女性に限定すべきではありません。

「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

私たちはそれぞれ愛によって造られ、愛のために造られました。私たちは自分の個性を神の愛によって定義する必要があります。

詩篇147:12-20

「主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。」(147:18)

神のみことばには力があります。イザヤ書にもこうあります。

「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(55:10,11)

今日の箇所は寒い冬から春に向かう季節を示唆しているのでLBではこう訳しています。

「しかし、主が春をお呼びになると、暖かい風が吹いてきて、川面の氷を溶かすのです。」

今日はクリスマス。神が歴史に介入された日。寒い冬は終わり、リバイバルの春が来ます!

詩篇147:1-11

「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(147:11)

人は腕力で神を振り向かせることはできません。10節をL Bではこう訳しています。

「どんなに足の早い馬でも、神から見れば、歩みの遅いかたつむりと同じです。どんなに腕力を誇る人でも、神からすれば、赤ん坊の手をひねるよりも簡単にねじ伏せられます。」

私たちはこの現実を飼い葉桶に寝かせられた救い主を見る時、気がつく必要があります。「メリー・クリスマス」と言う言葉の背後に理解する必要があります。人は人であり、神は神です。人は神にはなれません。しかし、神は人となられ救いを成就されました。ですから、神が喜ばれるのは、神を畏れ、神の信実の愛(ヘセド)に望みをおくことです。神のみを畏れ、神のみを信頼することです。

「神を畏れる人たちは神の注目を得ます。彼らは神の強さに頼ることができます。」(MSG)

詩篇146:1-10

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人。」(146:5)

神以外に頼ることのむなしさが記されています。

『人の助けをあてにしてはいけません。…人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて無になるのです。』(3,4節LB)

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあります。神は私たちが神以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。詩篇の中で、繰り返し神に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかったことが挙げられると思います。失敗しながら、神に正されながら、私たちもまた今日、神にのみ信頼することを学びます。

箴言31:1-9

「レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ。」とは、君子の言うことではない。」(31:4)

「王」という単語をメッセージ訳は「リーダー」と訳しています。リーダーがいつも酔っ払っていたら、ついていく人々は苦しむというのは、いつの時代も真理です。ですから聖書は言います。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)

LBは、「そこには多くの悪が潜んでいるからです」と訳していますが、確かに、歴史の中でも酒にまつわる悲劇があったことは事実です。この問題への対処法として、聖霊に満たされることが挙げられていることは注目に値します。聖霊に満たされることが様々な悪から私たちを守ってくれることとなるからです。