テトス 1章

「監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。」(1:7-8)

テトスはエーゲ海に浮かぶクレテ島の教会の指導者として働き、教会のリーダーを任命するという責任を担っていました。

ここでは、リーダーの資質について記されています。

これらの資質のポイントは、家庭で、学校で、職場で、それぞれ置かれているところにおいて、決して口だけのものであってはいけないと言うことです。

キリスト者としての生き方は、教会の中だけではないということです。

2テモテ 4章

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(4:2)

使徒パウロが若い伝道者であるテモテに命じたことは、みことばを宣べ伝えることでした。

キリスト教会の主日礼拝の中心が、みことばを宣べ伝えること、聖書のメッセージなのはこれが理由です。

使徒パウロは、エペソの長老たちにこう言いました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」(使徒20:26,27)

「神のご計画のすべて」とは、聖書全体ということです。

創世記から黙示録まで、教会は余すところなく聖書のみことばを宣べ伝える責任があります。

誰もが耳に心地よい話ではなく、健全な聖書の教えを語り続ける使命があります。

2テモテ 3章

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(3:16)

聖書は永遠のベストセラーと呼ばれます。

創世記から黙示録まで、六十六巻として成立してから2000年近くの歴史があります。

しかし、いまだに多くの人々に読まれています。読まれているだけでなく、多くの人の人生を変えています。

多くの言語に訳され、西洋だけでなく東洋でも、アジアやアフリカでも文化を超えて広く読まれています。

聖書のような書は他にはありません。

「神の霊感」と訳された単語は「神の息吹」と訳せる単語です。

聖書はすべて神の息吹であり、神の生きた言葉です。

ですから、聖書を読むことは、一般の本を読むこととは違います。

なぜなら、聖書の本当の著者は聖霊なる神だからです。

聖霊は今も聖書を通して私たちに語っています。

人はただ聖書を読むことによって神のみこころに生きることができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

2テモテ 2章

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。」(2:24,25)

暴力で世界を正そうとする発想は聖書に反しています。

だからと言って、「ことなかれ主義」を奨励しているわけではありません。

メッセージ訳では24節以下をこう訳しています。

神のしもべは、論争好きであってはならず、穏やかな聞き手であり、冷静さを失わない教師であり、従わない者には毅然と、しかし忍耐強く働きかけなければなりません。いつ、どのようにして神が彼らを素面にさせ、心を変えて真理に立ち返らせ、悪魔の罠 – 彼らが捕らえられ、囚われの身となり、- 悪魔の使い走りをさせられているところから逃れることができるようにされるかもしれません。

人は人を変えることはできません。しかし、神は人を変えることができます。

2テモテ 1章

「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」(1:7)

若い伝道者であったテモテには、たくさんの恐れがあったことがパウロの語る言葉から知ることができます。

パウロが牢獄に入れられ、テモテは教会を指導できるような状態にはなかったのだろうと思います。

そんなテモテにパウロは自分の能力ではなく、神が与えてくださったものに焦点を合わせるように促します。

どんなに自分の中におくびょうな霊しかないと感じていても、神はあなたに、力、愛、慎み(自制)の霊を与えているではないかと言うのです。

私たちもこの視点の転換が必要です。

どんなに自分の内に良いものを見いだせなくても、神が私たちに与えてくださっているものがあります。

ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」(8節)

1テモテ 6章

「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」(6:17-19)

現代は、貧富の差が広がり、資本主義の悪い部分が噴き出ています。

多くの金持ちは

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。」(6:7)

と言うことを忘れています。

聖書は警告します。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」(6:9,10)
神に望みをおき、善を行うことができますように。

1テモテ 5章

「私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行いなさい。」(5:21)

先入観やえこひいきは取り扱われる必要があります。

なぜなら神にえこひいきはないからです。

福音が全世界に広がるために、まず、ペテロの偏見が取り扱われる必要がありました。

ペテロは言います。

これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、」(使徒10:34)

パウロもはっきりとこう記しています。

神にはえこひいきがないからです。」(ローマ2:11)

ヤコブの手紙は、明らかに初代教会の時代にえこひいきの問題があったことを示唆します。

ですからこう訴えっています。

私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。」(2:1)

1テモテ 4章

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。」(4:6)

牧会書簡と呼ばれるテモテへの手紙の一番の関心ごとは、健全な教えです。

テモテが対処しなければならなかったことは、不健全な教え、「悪霊の教え」(4:1)でした。

それは、3節にあるように、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じるようなものでした。

聖書に反するそのような教えが蔓延していた理由は、「俗悪で愚にもつかない作り話」(7節)が横行していたからです。

そんなエペソの教会をどうしたらよいか、パウロがテモテを指導した方法はこれです。

教会で聖書を朗読し、その内容を教え、神のことばを伝えなさい。」(13節LB)

私たちは聖書のことばに養われる必要があります。

1テモテ 3章

「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。」(3:5)

聖書は、教会の奉仕よりも家庭を優先することを勧めています。

家庭を大切に出来る人でなければ、教会を大切にすることはできないというのです。

5章ではさらにこう記されています。

「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。」(8節)

家族を顧みないような人は、「クリスチャンと呼ぶわけにはいきません。」(LB)とまで、聖書は言います。

神を第一にすると言うことは、家族を蔑ろにしていいと言う意味ではありません。

そもそも、夫婦関係も親子関係も、献身が求められます。

そのように家族に献身することが出来ない人に、教会の働きに献身することは不可能だと聖書は言います。

1テモテ 2章

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(2:4)

神のみこころ、それはすべての人が救われて、真理を知るようになることです。

神は言われます。

わたしは、だれが死ぬのも喜ばない ─神である主のことば─。だから立ち返って、生きよ。」(エゼキエル18:32)

それで神はイエス・キリストをお与えになりました。

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。」(6節)

イエス・キリストの十字架はすべての人を贖うのに十分な代価でした。

ですから、今、キリストを信じる者は一人として滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。

そのために、パウロは宣教者、使徒、教師として任命を受けた(7節)と言います。

宣べ伝える人がいなければ、聞けないし、信じることも、呼び求めることもできません。

全ての人に福音を伝えなければならないということです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。