ヤコブ 4章

「あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。」(4:15)

長期的な計画をすることは悪いことではありません。しかし、神をないがしろにして、自分のことだけで頭がいっぱいになってしまうならば、人生の歯車は狂っていきます。

なぜなら、

あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」(14節)

聖書は私たちの目を覚まさせるかの如く厳しく言います。

あなたがたは高ぶって、むなしい計画で頭がいっぱいなのです。自分に頼っていては、決して神を喜ばせることはできません。ですから、何をすべきかわかっていながら行わないのは、罪だということを自覚しなさい。」(16,17節LB)

今という時に、神が導かれていることに従順することは大事なことです。

ヤコブ 3章

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。」(3:18)

人の怒りは神の義を実現しないのです。」(1:20)

と言いましたが、平和をつくる人々によって実現すると言います。

平和をつくる人は、平和の種をまいて、義の実を結ばせるのです。」(LB)

なぜなら、問題の根底にあるのはねたみや利己的な思いだからです。

聖書ははっきりと言います。

ねたみや敵対心は、神からの知恵ではなく、この世のものであり、真理に逆らう悪霊からくるものです。」(16節LB)

この暗闇の力の現実のゆえに、平和はつくるものであることを自覚する必要があります。

神からの知恵は純粋であり、平和とおだやかなやさしさに満ち、思いやりと良い実に満ちています。」(17節LB)

私たちはこの世界を地獄にするためではなく、神の御国をもたらすために生きています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヤコブ 2章

「あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(2:13)

ヤコブははっきりと言います。

愛する皆さん。人をえこひいきし、相手が金持ちか貧しいかによって態度を変えていながら、どうして臆面もなく、「私は主イエス・キリストを信じています」などと言えるでしょう。」(1節LB)

残念ながら教会の歴史を見るとこのような差別があった現実があります。

ガンジーも教会に足を運んだ際に、この差別を体験しキリストに出会う機会を逸してしまいました。

私たちはこのような差別をしないように互いに気をつける必要があります。

聖書は言います。

思いやりのない人には、思いやりのないさばきが下ります。しかし、あわれみ深い人には、神のあわれみがあるのです。」(LB)

優しい憐れみはいつも厳しい裁きに勝利します。」(MSG)

ヤコブ 1章

「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。」(1:19,20)

聞くことを優先し、自分の舌を制御し、怒りをあらわにしないようにと聖書は言います。

その理由は、「神の義は人間の怒りからは生まれない」(MSG)からです。

それでは、どうしたらいいのでしょうか。聖書は言います。

「ですから、自分の生活を総点検して、どんな悪をもすっかり取り除き、神のことばをすなおに受け入れなさい。神のことばには、私たちの心をとらえ、たましいを救う力があるからです。」(21節LB)

私たちは神の言葉、聖書を毎日読み、聖書の考え方に刷新される必要があります。

聖書は言います。

「もしも、「私はクリスチャンです」と言いながら、平気でとげのあることばを口にする人がいれば、その人は自分を偽っていることになります。」(26節LB)

ヘブル 13章

「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(13:8)

イエス様は、過去も現在も未来も変わることはありません。

ですから、福音書に出てくる内容が過去の話であっても、現在の私たちにそのまま適用できます。

そして、これからも適用し続けることができます。

聖書は言います。

「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」(マタイ4:24)

イエス様が教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされたのは二千年前の話です。

しかし、今も変わることがないイエス様は、今も教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされます。

そして、これからも、変わることなく、教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされます。

ヘブル 12章

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」(12:1-3)

信仰生活は短距離走ではなく、長距離走です。重要なのは、イエス様から目を離さないことです。心が元気を失い、疲れ果ててしまう時、私たちは十字架を忍ばれたイエス様のことを考える必要があります。私たちのために死なれたイエス様を考える必要があります。

ヘブル 11章

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(11:1)

11章は信仰の章と呼ばれますが、まず信仰の定義を提示した後、いくつもの例によってこの信仰の定義が叙述されています。

メッセージ訳は一節の定義をこのように訳しています。

存在の基本的な事実は、この神への信頼、すなわち信仰が、人生を価値あるものにするすべてのものの下にある確固たる基盤であるということです。それは、目に見えないものに対する私たちの対処法です。

ユージーン・ピーターソンは「信仰とは、実践的な宗教の総括的な言葉である。」と言います。

つまり、信仰は一歩ずつ歩んで行く実践的なものということです。

信仰によってモーセは、

キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。」(26節)

これは、知性だけでは理解できない世界です。信仰によって生きることができますように。

ヘブル 10章

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」(10:36)

救いは完全に神の働き、神の恵みの世界であり、人間の努力に依りません。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8,9)

神の約束にとどまる必要がある以上、忍耐が求められます。

神の約束されたものを頂きたいと願うなら、忍耐しなければなりません。」(LB)

聖書は言います。

あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。」(35節)

確信を投げ捨ててしまった人たちがいたのだと思います。解決策の一つはこれです。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(25節)

私たちは励まし合う必要があります。

ヘブル 9章

「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。」(9:15)

罪の報酬は死であり、罪の贖いは死を要求します。

大祭司は年に一度だけ、血を携えることで「第二の幕屋」(至聖所)に入ることが許されました。

第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。」(7節)

しかしキリストは、

ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(12節)

聖書は明白です。

キリストは罪のための最高のいけにえ、最高の祭司です。

人は今、イエス・キリストによって至聖所に入ることができます。

大胆に恵みの座に近づき、礼拝を捧げることができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヘブル 8章

「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。」(8:1,2)

ここにヘブル書の要点があります。

「私たちの大祭司はキリストであり、現在、天において神の右の座についておられます。」(LB)

キリストはすべてのものを治めておられ、祭司の役割を担われています。

旧約聖書に出てくる幕屋、聖所は、天にあるものの写しであって、キリストは天にあるまことの聖所におられます。

旧約聖書の「古い契約」は、新約聖書の「新しい契約」に刷新されました。

「古い契約」の問題、それはイスラエルの民が「わたしの契約にとどまらなかった」(9節)こと、罪の問題です。

人は「新しい契約」が必要でした。

イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられ」永遠の祭司となられました。

※ 8月2日(月)から神奈川県も緊急事態宣言の発出が決定されましたが、教会の対応は8月1日(日)の役員会で決定し連絡させていただきます。