ヨハネ 13章

「イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」」(13:7)

イエス様が突然、弟子たちの足を洗いはじめたので、ペテロは面喰らったのだと思います。

当時、足を洗うのは奴隷の仕事とされていました。

サンダルで歩いていたのですから、足もかなり汚れていたことが容易に想像できます。

イエス様が何をされているのか理解することができませんでした。

私たちの人生に起こる様々な出来事も、理解できないことばかりです。

イエス様は力ある神のはずなのに、どうしてこんなことが起こるのだろうか。

イエス様は自分のことを愛されているのならどうしてこんなことが起こることを許されるのか。

イエス様の答えは今も同じです。

わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。

イエス様が求められていることは理解することではなく、信頼することです。

ヨハネ 12章

「そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」」(12:35,36)

「闇」は神のいない世界を象徴しています。

神を無視して生きる人生はまさに「闇の中を歩く」人生です。

イエス様は「光の子どもとなれるように」と語りました。

「光の子ども」となれる方法は、ただイエス・キリストを信じることだと言いました。

イエス様はご自身を光として語られました。

わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(8:12)

イエス・キリストを信じる者の内にはイエス様と同じ三位一体なる神である聖霊が住んでくださいます。

聖霊は聖書の御言葉をもって私たちの道を照らしてくださいます。

ヨハネ 11章

「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(11:5)

イエス様はマルタとその姉妹マリアとラザロを愛しておられたと聖書は言います。

ここで使われている愛は「アガペ」で、神の愛を表す時に用いられる単語です。

「無条件の愛」と訳されることもあります。

イエス様はマルタとマリアとラザロが何かできるから愛していたのではなく、その存在を愛しておられたということです。

2節で

このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで

と説明していますが、そのような行動をとったからイエス様が愛されたのではないことを示唆するためか、ここでマリアの名前は伏せられ、「その姉妹」とだけ記録されます。

マリアの行動はあくまでもイエス様の愛に対しての応答だったということです。

神様は私たちを愛しておられます。

それがクリスマスが私たちに伝えているメッセージです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 10章

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(10:10)

盗人とはサタン(悪魔)のことです。

サタンが来る目的は、盗み、殺し、滅ぼすためです。喜びを盗み、関係を壊し、人生を破壊するためです。

この世の悪の背後にはサタンの存在があります。

しかし、イエス様が来られた目的は、私たちがいのちを得るためです。

一人でも多くの人に充実した意義深い人生を与えるためです。

パッション訳ではこう訳しています。

しかし、私が来たのは、あなた方にすべてのものを豊かに与え、あなた方が期待する以上のものを与え、あなた方があふれるまで、人生を満ち足りたものにするためです。

クリスマスはイエス様がこの世界に来られたことをお祝いする時です。

このアドベントのシーズン、一人でも多くの人にイエス様が来られた目的を伝えることができますように。

ヨハネ 9章

「こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。」(9:15)

イエス様は往々に信仰の行動を求められます。

この目の見えない人の場合、イエス様は泥を彼の目に塗って、シロアムの池で洗うように言われました。

彼は、シロアムの池に行って、自分で洗うという信仰の行動を行う必要がありました。

神はなんでもできますが、あえて信仰の行動を求められます。

パリサイ人たちの尋問に対する彼の応答を読む時に、彼の信仰の行動が彼の言葉に力を与えていることを見ることができます。

彼はどんなに脅されても、揺るがない信仰をもって答えます。

あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)

ヨハネ 8章

「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(8:31,32)

日本の国立国会図書館に、「真理がわれらを自由にする」と刻まれています。

イエス様は「真理」とは何か、はっきりと言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

イエス様が「真理」です。

ですから、「真理がわれらを自由にする」と言う「真理」は、イエス様のことを指しています。

「イエス・キリストがわれらを自由にする」という意味です。

すべての人は、まことの真理、イエス・キリストが必要です。

イエス様はこのことを、ご自分を信じた人たちに言われました。

そして、イエス様の言葉に留まるように言われました。

日々、聖書の御言葉を読み、黙想し、御言葉に留まることを通して自由を体験することができますように。

ヨハネ 7章

「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」」(7:50,51)

3章でイエス様のところに訪問したことがあるニコデモは、当時の宗教指導者たちの偏見に気づき注意をします。

しかし、彼らはニコデモに言います。

あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」(52節)

最も賢いはずの彼らは自分たちの意見を通すために事実を曲げました。

預言者ヨナはガリラヤ地方の出身です。

さらにイザヤ書9章にはメシアがガリラヤ地方でその働きをされることが預言されています。

私たちは賢いとされる人たちの言葉を鵜呑みにせずに、果たしてそうかと調べる姿勢も大切です。(使徒17:11参照)

現代はメディアに振り回されないように気をつける必要があります。

ヨハネ 6章

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」(6:56)

イエス様は、ご自身を「いのちのパン」と呼ばれました。

最後の晩餐の時、イエス様はパンを裂き、弟子たちに与えて言われました。

これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。」(ルカ22:19)

聖餐式の時に、私たちはまさにパンをイエス様のからだとして食べます。

その意味の一つがまさにここにあります。

イエス様のうちにとどまるということです。

聖餐式の時、私たちはパンをイエス様のからだとして、ぶどうジュースをイエス様の血として飲みます。

このことを通して、私たちはイエス様の中にいることを覚え、またイエス様が私たちの中におられることを覚えます。

ヨハネ 5章

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(5:25)

神の言葉には命を与える力があります。

世界のはじまりが神の言葉からはじまったように、神の子、イエス・キリストの声を聞くものは命を得ます。

イエス・キリストの声は、死人にまで届き、命を与えます。

私たちは今、イエス・キリストの声を聖書を通して聞くことができます。

イエス・キリストの声は、聖書を通して、世界中の人々が聞くことができます。

事実、イエス・キリストの福音を聞く者たちは命を体験しています。

だから聖書は言います。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17)

一人でも多くの人が、イエス・キリストの声を聞くことができるように、福音を宣べ伝えていくことができますように。

ヨハネ 4章

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」(4:23)

神が求めておられるのは「礼拝者」です。

パッション訳では今日の箇所をこのように訳しています。

これからは、父なる神を礼拝することは、場所の問題ではなく、正しい心の問題となります。神は霊であり、霊と真理の領域で神を崇拝する誠実な礼拝者を神は望んでおられるからです。

神への礼拝は私たちの好みの問題ではありません。

LBでは、

正しい礼拝をするには、聖霊の助けが必要です。

と訳しています。

神が望まれている礼拝者は、聖霊を認め、聖霊を歓迎し、聖霊に導かれて捧げる礼拝者です。

ですから、まことの礼拝者たちは何よりも聖霊を求めます。

神はそのような人たちを求めておられます。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。