ルカ 1:67-68

「ほむべきかな、イスラエルの神、主。」(1:68)

聖書の神は、イスラエルと契約をし、ご自身を現された「ヤハウェ」(主)なる神です。

ユダヤ人たちは「ヤハウェ」という神の名が出てくると神の名を呼ぶことを恐れ、「主」という意味の「アドナイ」と読みました。

つまり、ゼカリヤは「ヤハウェ」なる神をほめたたえたということです。

なぜなら、主はその御民、イスラエルを顧みてくださったことを知ったからです。

そのしるしが、彼の息子、バプテスマのヨハネの誕生でした。

彼は生まれてくる彼の息子が「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。」(16節)と御使いガブリエルから告げられていました。

もっとも、神の救いの計画はイスラエルだけでなく、すべての人に対するものでした。

それは、バプテスマのヨハネが指し示す、神の御子、イエス・キリストの誕生によって示されます。

ルカ 1:65-67

「主の御手がその子とともにあったからである。」(1:66)

バプテスマのヨハネの誕生は皆に恐れを抱かせ、ユダヤの丘陵地域全体に広がりました。

近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。」(65節)

そして、二つの反応がありました。

一つは、聞いた人たちの反応。

これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。」(66節)

もう一つは父親のザカリヤの反応。

聖霊に満たされて預言した。」(67節)

これらの反応は神が不思議をなされたことに対するふさわしい反応です。

私たちは語り伝えるだけでなく、心にとどめ考えます。

そして、聖霊に満たされて神の言葉を語ります。

聖霊なる神様、私を満たし、みこころのままに私を用いてください。

ルカ1:59-64

「すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。」(1:63)

近所の人たちや親族は父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしました。

しかしエリサベツは、「名はヨハネとしなければなりません」と言いました。

あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言われましたが、その名は御使いガブリエルが神殿でザカリヤに与えた名でした。

ザカリヤもはっきりと、「その子の名はヨハネ」と書きました。

人々はその名に驚いただけでなく、その時、「ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」ので驚きました。

ザカリヤは九ヶ月以上話すことができませんでした。

彼は聖霊に満たされて神の御業をほめたたえます。

ルカ 1:57-58

「さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。」(1:57)

エリサベツがバプテスマのヨハネを産んだということはもちろん素晴らしいことですが、一番の喜びは、神が大きなあわれみをかけてくださったことだったと言います。

近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。」(58節)

聖書は言います。

喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」(12:15)

泣く者とともに泣くよりも、喜んでいる者たちとともに喜ぶ方が難しいと言われます。

神は大きなあわれみをかけてくださるお方です。

神のあわれみをともに喜ぶことができますように。

ルカ1:45-56

「マリアは、三か月ほどエリサベツのも とにとどまって、家に帰った。」(1:56) 

マリアが親類のエリサベツのところに 行った時、エリサベツはすでに六ヶ月だったと言います。(36節)

それから、三 ヶ月ほどとどまったという意味は、はっきり書いてあるわけではありませんが、ヨハネが誕生するまで一緒にいたということが示唆されているのかもしれません。

神はマリアにバプテスマのヨハネの誕生の証人という特権を与えることによってさらなる励ましを与えられました。

誕生までの三ヶ月間、エリサベツとゼカリアと一緒に過ごすことを通して、マリアもイエス様の誕生に向けて心の備えをすることができたのだと思います。

神がなさることは、すべて時にかなって美しいものです。

ルカ 1:45-55

「主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」(1:50)

「主を恐れる者に」という意味を私たちは考える必要があります。

神の絶大な力は、私たちを容易く滅ぼすことができます。

偉大なる神の御前では誰もが取るに足りない者であり、どんな私たちの努力も神の目には小さなものです。

私たちはこのことを覚え、健康的な恐れを神に対して抱くべきです。

そうでなければ、神が私たちを愛していること、神の恵みが満ち溢れていること、神の憐れみがとこしえまでもあることを、当たり前のように考えてしまうからです。

偉大なる神が、こんな私たちを選んでくださり、愛してくださっているという事実を、私たちはどれほど感謝しているでしょうか。

ルカ 1:45-55

「権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。」(1:52)

神は逆転が好きなお方のようです。

実際私たちはこのことを歴史の中でも頻繁に目にします。

ベルリンの壁が崩れる日を誰が想像することができたでしょうか。

アパルトヘイトが撤廃される日を誰が想像することができたでしょうか。

圧制が崩壊する時、民は喜びます。

だからマリアは神が権力者を引き降ろし、はみだし者たちを引き上げると歌いました。

神は飢えた者たちに食べさせ、裕福な者たちを何も持たせずに帰らせると歌いました。

まさに神はこの世界に神の国と神の義をもたらそうと行動されています。

イエス・キリストは王宮のベッドの上ではなく、貧しい家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられたことを私たちは覚える必要があります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ルカ 1:46-55

「私のたましいは主をあがめ」(1:46)

46節から55節までは、マリアの「マグニフィカット」と呼ばれる歌です。

「マグニフィカット」とは「あがめ」という単語のラテン語訳です。

マリアはまず、彼女の「たましい」は主をあがめると歌いはじめました。

ヘブル語で「たましい」はその人の存在すべてを意味する単語です。

つまり、彼女の存在すべてが主をあがめると歌ったのです。

マーヴァ・ドーウンという学者はこう言っています。

彼女は目立たない存在でしたが、神は彼女を慈愛に満ちた眼差しで見守っていました。 彼女は、すべての世代が彼女を称賛することになっても、その栄光は神のものであり、神は驚くほど大きいお方であり、神こそあがめられるべきお方であることを、すべての人に知ってもらいたかったのです。

ルカ1:39-45

「私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。」(ルカ1:43)

御使いガブリエルがマリアのところに現れてイエス様を宿すことが伝えられました。

不安の中にあったマリアにガブリエルは親類のエリサベツのところに行くように伝えます。

マリアは急いで、エリサベツを訪ねます。

エリサベツの言葉はガブリエルのメッセージを確信させるものとなりました。

エリサベツはまだそんな片鱗もないのに、マリアが子どもを宿していることを知っていました。

マリアの声を聞いて、胎内で子どもが躍り、聖霊に満たされたからです。

そして、マリアに言います。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(45節)

天使が訪ねて来るという体験を誰もがするわけではありませんが、私たちは誰でも神の約束を聖書の御言葉を通して読むことができます。

ヨハネ 15章

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(15:16)

私たちは自分が選んだ、自分にイニシアチブ(主導権)があると思ってしまいやすいですが、実は、神様が選んでくださった、神様の側にイニシアチブがあると言います。

一人でも多くの人々がイエス様を信じることができるために私たちを選ばれたと言います。

そのためにイエス様の御名によって祈るように私たちを選ばれたと言います。

私たちのこの地上での使命、選ばれ任命されたことを忘れることなく生きることができますように。