詩篇 38篇

「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きは、あなたに隠れてはいません。」(38:9)

ダビデは自分の愚かさが招く苦しみを理解していました。

それは私の愚かさのためです。」(5節)

と告白しています。

ダビデは自分の過ちだけでなく、反対者にも対処しなければなりませんでした。

私のいのちを求める者は、罠を仕掛け、私のわざわいを願い求める者は、私の破滅を告げ、絶えず、欺くことを語っています。」(12節)

ダビデは言葉を失います。

しかし私は、彼らが脅す声を聞かないようにしています。口がきけない人のように、黙りこんでいます。」(13,14節LB)

私たちを襲う辛辣な言葉は聞き流すということを学ぶ必要があります。

なぜなら、私たちはダビデと同じように、

「主に望みを託しているからです。」(15節LB)

私たちはダビデがそうしたように祈りに変える必要があります。

神の道は祈りの小石で敷き詰められています。

詩篇 37篇

「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には未来がある。」(37:37)

「平和」と訳された単語は「シャローム」です。

ですから、「シャロームの人には未来がある」と訳せます。

将来、希望がシャロームの人にあると言うのです。

素晴らしい神の約束だと思いませんか!

原文は「シャロームの人」の前に、「なぜなら」(または「じつに」)という接続詞が入ります。

つまり、「シャロームの人」には将来があるから、「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。」と言います。

つまり、「シャロームの人」とはこの詩篇に出てくる「正しい人」のことです。

希望があるのは、「正しい人の救いは主から来る」(39節)からです。

詩人は言います。

「主によって人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。」(23,24節)
今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 36篇

「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです。」(36:9)

私たちはどこに自分のいのちの泉を見出そうとしているでしょうか?

どこに光を見出そうとしているでしょうか?

イエス・キリストは言いました。

わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

イエス・キリストが与えてくださる救いを受け取る時、私たちの内には聖霊が住んでくださいます。

日々、聖霊に満たされることを求めるならば、私たちはいのちの泉を体験することができます。

他の何か、他の誰かを求めてしまっているがゆえに、渇いているということはないでしょうか?

聖霊なる神様がいのちの泉です。

聖霊を求めて祈りましょう。

「注いでください。あなたの恵みを」(10節)

詩篇 35篇

「私の義を喜びとする者たちが喜びの声をあげ楽しむようにしてください。彼らがいつもこう言うようにしてください。「主は大いなるかな。ご自分のしもべの平和を喜ばれる方は」と。」(35:27)

後半部分を新改訳第三版では、

ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。

と訳しています。

「平和」と訳し直した「繁栄」と訳された単語は「シャローム」です。

シャロームは単に争いがない状態を指しません。

不当な抑圧を見て見ぬふりをするような平和は、シャロームとは呼べません。

「ご自分のしもべの」とありますが、神の国の価値観をもった人々が繁栄し、成功することを神は願っておられます。

ですから、繁栄することが悪いことではなく、繁栄をどう用いるかが問題です。

繁栄を目的に生きていく時に、人生は崩れていきます。

しかし、過度に繁栄を否定するべきではありません。

神はご自分のしもべが繁栄することを願っておられるからです。

詩篇 34篇

「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。」(34:8)

「味わう」ことも、「見る」ことも、体験しなければ分からない世界です。

「いつくしみ深い」と訳された単語は「トーヴ」、英語のGoodに相当する言葉です。

主が「良いお方」であることは体験しなければ分からない世界ということです。

机上で神学を勉強して理解できるような世界ではないということです。

実際に、膝を屈めて祈らなければ、礼拝者として神に礼拝を捧げなければ、神が「良いお方」であることは分からないということです。

味わうためには、口を開ける必要があります。

見るためには、目を開ける必要があります。

私たちは信仰の一歩を踏み出す必要があります。

詩篇 33篇

「新しい歌を主に歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」(33:3)

私たちの社会は、常に新しいものが生み出されていきます。

新製品という話だけではなく、旬の食材が食卓に並ぶ時、私たちは新鮮さを味わいます。

私たちと神との関係も新鮮さが必要です。

伝統的な歌も大切ですが、新しい歌を作り、歌うことも大切です。

過去感動した聖句も大事ですが、日々、新鮮な気持ちで聖書を読んでいく必要があります。

過去に感銘を受けた説教を心に留めることも大切なことですが、神が今という時に、説教者を通して語ろうとしていることに心を開いていく必要があります。

神は今生きておられ、新しい事をなさる方です。

聖書の神は、

見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:19)

とおっしゃられるお方です。

詩篇 32篇

「あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り救いの歓声で私を囲んでくださいます。」(32:7)

聖書の神は、私たちの罪を赦してくださるお方です。

ダビデは言います。

私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう。」と。すると、あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。それゆえ、敬虔な人はみな祈ります。」(5,6節)

罪を隠し、黙っているならば、疲れ果てます。ダビデは告白します。

私には、罪を認めたくない時がありました。しかし、私はかえってみじめになり、来る日も来る日も挫折感にとらわれて過ごしました。」(3節LB)

ですから、ダビデは言います。

私は神を信じる人々に、大声で忠告します。『自分の罪に気づいたなら、まだ赦される間に神に告白しなさい』と。」(6節LB)

主イエス・キリストは私たちの隠れ場です。苦しみから守り、救いの歌で私たちを囲んでくださいます。

詩篇 31篇

「主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、厳しく報いをされる。」(31:23)

神の愛は世界の不思議」(21節MSG)

とダビデは言います。

パウロは

人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:19)

と言いましたが、この神の愛に満たされるならば

主を愛せよ」(23節)

という命令も理解できます。

勇気を出せ。強くあれ。あきらめるな。すぐ神がここに来られることを期待せよ」(24節MSG)

と言うことも納得できると思います。

主にある敬虔な者たち

とあるように、主を畏れ、主に誠実であることが求められています。

「高ぶる者」をMSG訳では

傲慢にも単独で行く人

と訳します。

イエス様は、

あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4)

と言われました。

イエス・キリストが必要であることを認めることができますように。

詩篇 29篇

「主はご自分の民に力をお与えになる。主はご自分の民を平安をもって祝福される。」(29:11)

主の声は力強く 主の声は威厳がある。」(4節)

とダビデは歌います。

今、私たちはこの力強く、権威がある神の御声を、聖書を読むことを通して聞くことができます。

神の御言葉に力がありますから、聖書を読むことを通して、私たちは力を受けることができます。

神の御言葉に権威がありますから、聖書を読むことを通して、私たちは祝福を受けることができます。

ですから、毎日、聖書を読み、神の御声を聞くことは信仰生活を歩む中で重要です。

聖書は言います。

主は大洪水の前から御座に着いておられる。主はとこしえに王座に着いておられる。」(10節)

主はコロナ禍の前から御座についておられます。

今も、そして、これからも御座についておられます。

神の主権を認め、主の御声に耳を傾け、今日も上からの力をいただきましょう!

詩篇 28篇

「ほむべきかな主。主は私の願いの声を聞かれた。」(28:6)

聖書の神は、私たちの祈りを聞かれるお方です。

私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業をなされるお方です。

しかし神は、自動販売機やジーニーのように、私たちの祈りを聞かなければならないというわけではありません。

神は神です。

ただ、神は私たちの祈りを聞かれることを選ばれます。

ただし、ダビデが「私に沈黙しないでください」(1節)と訴えたように、時には、聞いておられないのではと思うことがあります。

ダビデも、周りの状況を見る時に、そう思わずにはいられませんでした。

しかし、主を見上げる中で、ダビデの視点は変えられます。

主は私の力 私の盾。私の心は主に拠り頼み 私は助けられた。私の心は喜び躍り 私は歌をもって主に感謝しよう。」(7節)。