詩篇 78篇

「それを私たちは、息子たちに隠さず、後の時代に語り告げよう。主の誉れを、主が行われた、力ある奇しいみわざを。」(78:4)

私たちは神のすばらしい御業を、自分のうちにだけとどめるのではなく、次の世代へと語り伝えるように召されています。

詩人は言います。

私たちは、これからも子どもたちに語り続ける。そして、次の世代に私たちの神の偉大な奇跡を隠すことはしない。主の奇跡と力が、私たちをここまで導いてくれた。」(TPT)
次世代の人々が神に希望を見出すことができるように、神のすばらしい御業を伝えていく責任が私たちにはあります。

神の方法は永久に、世代から世代へ、まだ生まれていない人たちへも受け継がれるから。このようにして、どの世代も神に望みを託すようになり、そのすばらしい御業を忘れずに、その戒めを守るから。」(6,7節TPT)

詩篇 77篇

「夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い、私の霊は探り求めます。」(77:6)

私たちは人生の夜にどのように過ごすかが問われます。

パッション訳では今日の箇所をこのように訳しています。

それから私は、かつて夜のシーズンに歌っていたワーシップソングを思い出しました。そして、私の心は再びあなたへの思いで満たされ始めたのです。そこで私のたましいはもう一度、あなたを探しに出かけました。

真夜中の賛美は私たちのたましいを回復するために必要です。

使徒16章でパウロとシラスが真夜中の獄中で賛美の歌を歌った様に、ハレルヤと歌うことが私たちを獄中から解放します。

賛美の歌声をあげはじめる時、主のみわざを思い起こします。

自分の内側でなく、イエス・キリストを仰ぎ見る時、たましいは救いを体験します。

詩篇 76篇

「天からあなたの宣告が聞こえると、地は恐れて沈黙しました。」(76:8)

地の虐げられた人たちを救うために神は立ち上がり、天から宣告を下されます。

その時、敵の武器は粉砕され、戦争は止み、平和が訪れます。

神は偉大なるお方だからです。

あなたは、実にあなたは恐ろしい方。お怒りになれば、だれが御前に立てるでしょう。」(7節)

天から宣告を下される神は、シオンでご自身を顕されました。

「その仮庵はサレムに、その住まいはシオンにある。」(2節)

「サレム」はエルサレムのこと、「仮庵」は神殿を指しますので、この箇所はシオンの丘に建てられた神殿のことを指します。

すなわちイスラエルに顕されたヤハウェなる神こそが、全世界の神であるということです。

詩人は言います。

「あなたには、人の無益な怒りを賛美に変える力があります。」(10節TPT)

私たちはそのことをキリストの十字架に見ます。

詩篇 75篇

「高く上げることは東からでもなく西からでもなく荒野からでもない。まことに神こそさばき主。ある者を低くしある者を高く上げられる。」(75:6,7)

バビロンの王ネブカドネツァルは、自分の権力に驕り高ぶった時、神から低くされ、天からの声を聞きます。

いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」(ダニエル4:32)

まさにそれが今日の詩篇のポイントです。

神のお力添えがあってこそ、誉れも権力も手にすることができるのです。神は、思いのままに人を栄えさせたり、低くさせたりなさいます。」(LB)

私たちはいと高き神こそがさばき主であり、公正に裁かれ、統べ治められることを認める必要があります。

神がある者を低くし、神がある者を高くします。

聖書は言います。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:6)

詩篇 74篇

「神は、昔から私の王、この地において、救いのみわざを行う方。」(74:12)

詩人は嘆き、叫びます。

ああ神よ、なぜいつまでも私たちをお見捨てになるのですか。」(1節LB)

こんな状態がいつまで続くのか、だれも知りません。ああ神よ、いつまで敵があなたのお名前を踏みつけるのを、お許しになるのですか。彼らをそのままにしておかれるのですか。」(9,10節LB)

このような詩篇が聖書に含まれている理由は、このような苦悩を体験しているのは「あなただけではない」ということを知るためです。

残念ながら、

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ三・十二)

しかし詩人はこのような中で、神の力を思い起こします。

今、見えないからと言って、すべてを否定する必要はありません。

知らないことのゆえに、知っていることまで手放す必要はありません。

神こそ天地を創造された方であり、統べ治めておられる王です。

救いの御業を行う方です。

詩篇73篇

「まことに神はいつくしみ深い。イスラエルに心の清らかな人たちに。」(73:1)

「いつくしみ深い」と訳された単語は、英語のGOODにあたる「良い」(トーヴ)という言葉です。

28節の「幸せ」も同じです。

詩人が語る土台的真理は「神は良いお方」。

私たちの人生には理解できないことがたくさんあります。

この世界が崩れ落ちていくように見えても、混乱してしまったとしても、この土台的真理「神は良いお方」を心に留める必要があります。

苦しみの中で私たちはまったく逆に考えてしまいます。

「もし、神が力あるお方ならば、どうしてこんなことが起るのか?」

詩人も同じような悩みを体験しながら、神の臨在の中で目が開かれます。

やがて私の体は衰え、気力も弱ります。しかし神は、いつまでも変わらず、心の支えとなってくださいます。」(26節LB)

神が、万事を益としてくださることをいつも覚えることができますように。

詩篇 72篇

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えるでしょう。」(72:11)

すべての王がひれ伏し仕える王、それがメシヤ、キリストです。

聖書は言います。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:10,11)

ですから、この「王」こそイエスのことです。

彼は、身寄りのない者や貧しい者を援護します。弱っている者や困っている者を見ると、いても立ってもいられず、助け上げるのです。彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできません。彼にとって、このような者たちのいのちはとても大切なものなのです。」(12-14節LB)

福音書に描かれるイエスの姿がここにあります。

イエスこそ王、メシヤです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 71篇

「しかし私は、絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美します。」(71:14)

詩人は思わぬ苦難に直面し、人々から神に見捨てられたとみなされてしまいます。

しかし、詩人は神の御業を思い起こして訴えます。

ああ神よ。私は一日中、あなたがしてくださった数々のことを思い起こしては、あなたを賛美し、栄誉をたたえています。私は年老いて体力も衰えています。どうか、お見捨てにならないでください。敵はひそひそと話しています。「神もあいつを見限ったのだ。もうじゃまは入らない。今度こそ、打ち倒すことができる。」ああ神よ、そんなに離れた所にいないでください。急いで来て助けてください。」(8-12節LB)

詩人が選び取った姿勢は私たちが模範とすべき姿勢です。

どんなことがあっても、あなたが助けてくれると信頼しています。あなたの栄光が拡大するために、私があなたを賛美することを止めるものは何もありません。」(14節TPT)

詩篇 70篇

「あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。」(70:4)

人が「神を慕い求める」のは、聖霊がその人の内におられる証拠でもあります。

使徒パウロがこのように言っています。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、キリスト者は、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。

神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神ご自身が願っていることです。

神を慕い求める人は、神の偉大さを体験します。

神がどれほど大いなるお方かを体験します。

詩篇 69篇

「しかし私は、主よ、あなたに祈ります。神よ、みこころの時に、あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」(69:13)

詩人は逆境の中にありました。

詩人の訴えは深刻です。

彼らにさげすまれて、私の心は傷つきました。心はふさぎ込んでしまいました。一人でも、同情して慰めのことばをかけてくれる人がいてくれたらと思います。」(20節LB)

その中で詩人は、「私は、主よ、あなたに祈ります。」と、主に信頼することを選びます。

そして「みこころの時に」と、神の主権に自分の身を委ねます。

それはあきらめの境地にいたったという意味ではありません。

なぜなら、詩人は祈りの答えを期待しているからです。

私はあなたを呼び続けます、ヤハウェ!あなたは身をかがめて聞いてくださると知っていますから。今こそが恵みの季節ですから。あなたの私への信実な愛のゆえに私の祈りに対するあなたの答えは、私の確かな救いとなります。」(TPT)